2015年11月22日日曜日

王の職務

[聖書]エレミヤ2316
[讃美歌]194,386,459、
[交読詩編]17:1~12、
[聖書日課]ヨハネ18:33~40、黙示録17:1~12、

 

本日は終末主日です。何処の教会でも守っているわけではないので、教会暦ではありません。メソジスト系の教会は、比較的、守るところが多いようです。

教会暦一年の最終主日を言います。カレンダーの最後の日に、この被造世界の最後、人生の最後に思いをはせる時です。何よりも、キリストの復活と再臨を考える時です。

終末論は、現世の最後についての教説。個人あるいは民族・人類の死を論じて,審判や他界(天国・浄土・地獄),死後の救済,さらに復活や転生などを問題にする。特にキリスト教では,世界の終末におけるキリストの再臨・人類の復活・最後の審判を説き,重要な教説となっている。

この終末主日の次は、教会暦の新年、待降節が始まります。

 

エレミヤはバビロン捕囚という破局の証人であるばかりか、その出来事の深い秘密についての解説者でもあります。エレミヤ書をじっくりと読むことによって、神の御心にふれることができるものと期待いたします。

 

エレミヤは、ヨシヤの治世13年に預言者として召され、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの時代を経て、エルサレム陥落後まで活動した預言者です。ヨシヤ王の宗教改革を支え導いた預言者です。それはイスラエルの歴史において、大きな曲り角に当たる、最も悲劇的な時代を生きた預言者です。つまり、ユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた時代、まさに動乱の時代に神のことばを語ることがエレミヤに定められた召しでした。エレミヤは「涙の預言者」と言われるほどに、悲しみを体験した預言者でもあります。

 

預言者エレミヤは、新バビロニアとエジプトにはさまれたユダの民が優柔不断な王の下に戦争の不安と苦しみに悩むという国家の危機の中で、エルサレム神殿への呪術的信仰が広まることに対し、ヤハウェの契約と律法に従うしか祖国の救いはないとし、神殿と祖国の壊滅を預言します。「バビロン捕囚」を神の審判と考えたエレミヤは、新バビロニアへの空しい反抗をやめるように主張しました。敗戦の後、新バビロニアの総督ゲダリアのもとで祖国の再建をもくろみますが、ゲダリア暗殺後、新バビロニアの報復を恐れた民衆によってエジプトに連れて行かれます。ナイル川中流域、アブシンベル神殿、ヌビア遺跡で有名な場所ですが、その東側のエレファンティン島があります。ここは、古くからイスラエル人が居留地を作っていたようです。今回もそこへ逃れ、エレミヤはそこで死んだ、と推測されています。葬られた場所も知られていません。

 

イスラエル王国史、民族史に於いて、バビロン捕囚はとてつもなく巨大な爪跡を残しました。個々人にとって苛酷なものであったことは言うまでもないでしょう。それに先立つ戦闘によって命を奪われた人々、市街戦の中で生命・財産を強奪された人たち、生き残ったけれども筆舌に尽くせない傷を負った多くの人たち。そして、敗戦、捕囚へと進みます。

捕囚、敗戦の民が捕虜となり、囚人となって、戦勝国へ連れて行かれること。日本が敗戦国となった時、この知識を持つ国民は本気で、自分たちも外国へ連れて行かれ奴隷となるだろう、と心配しました。幸いこれは、実現しませんでした。

然し、イスラエルの民には現実のことでした。紀元前6世紀、裕福な人々、民のうちの指導的な人々、とりわけ戦争指導ができる人、軍人・将軍。戦争の道具、武具・兵器の生産に携わる技術者を中心に捕囚作戦が実施されました。

 

598年とされる第1回捕囚、総数はエレミヤ書では3023人とされていますが、これは家長だけを指し、実際に家族を含めればその数倍。エルサレムのすべての市民、およびつかさと全ての勇士、さらにすべての木工と鍛冶一万人を捕らえて行った。残ったものは国の民の貧しい者のみであった。(列王下24章)

 

このバビロン捕囚の悲劇はどのようにして起きたのでしょうか。当時、歴代の王が、主の目に適わなかった、と列王記、歴代志が記します。ゼデキヤについて次のようにあります。

「主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身を低くしなかった。彼はまた、彼に神を指して誓わせたネブカデネザル王にも背いた。彼は強情で、その心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。」歴代下361213

 

エホヤキン(ヨヤキン)がバビロンに連行された後、バビロンの王によってその叔父が王位に付けられてゼデキヤとなります。しかしこの王も列王紀では前の王たちと同じく「主の目の前で悪を行った。エルサレムとユダにこのような事の起こったのは主の怒りによるもで、主はついに彼らをみ前から払いすてられた。」と言っています。そのゼデキヤがバビロンの王にそむいたので、前586年に第2回バビロン捕囚が起こりました。(列王下25章)

「侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕らえ移した。ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、ぶどうを作る者とし、農夫とした。」

 

捕囚生活の実体、コロニーのようなものを造り緩やかな監視の下ではありますが、かなり自由な生活ができたようです。決して奴隷生活、強制労働はなかったと考えられています。

おそらく農業中心の生活でしょう。間もなく商業・金融によって定住、蓄財に成功します。

そのため、エルサレム帰還が許されても、今更、と考えたのでしょうか、国際都市バビロンに残ることを選ぶユダヤ人が多かったようです。

バビロニアは宗教寛容政策を取ったこともユダヤ人を引き止めました。これは、英国エリザベス女王時代にも採用されています。多民族を支配下に置こうとする時、どうしても必要でした。ローマ帝国しかり。皇帝礼拝さえ守れば、自分の信じる神を礼拝できるというものです。ローマ時代の迫害は例外的で、直ぐにやむものと考えられていました。

そして、ユダヤ人、神殿抜きのユダヤ教の始まりは、このときでした。

 

詩編137編、川辺の木にかけし緒琴、今しも外して神をたたえん(旧讃美歌283

半世紀に及ぼうとしている異教の地バビロンでの生活も半世紀に及ぼうとしている。

ある日、異教徒たちが、お前たちの国の歌でも聞かせろよ、と求めたのでしょう。

誰がそんな求めに応えるものか。異教の地では決して唄わない、として柳に琴を掛けてしまった。

月日がたって、間もなく郷里へ帰還できる今、救いの光を讃美しよう。

今こそ琴をおろして神をたたえよう。

 

イスラエル・ユダの王たちがその役割を正しく果たさなかった時、捕囚という悲劇が起こりました。

 

王の職務、きわめて現代的な課題です。

王は国内を統治し、外敵より国を守ることが伝統的に職務とされています。

国民生活の安全と平和を守ること、自分の利害を度外視して働く。

王はその役割を果たす故に王と認められます。国民は従順に税を納め、賦役に服する。

役割を果たさず、自己の栄耀栄華に酔いしれるなら、国民は反乱を起こし、違う王を擁立する。さもなければ、国を棄て他所へ移る。

現代の王たち、政治家、官僚達は誰のための、どのような政策を実行しているでしょうか。

 

エレミヤが23章で告げることは、同じ捕囚期の預言者エゼキエルも告げています。37

災いなるかな、羊を食い物にする羊飼い。

 エゼキエルはエレミヤとダニエルと同年代に生きた預言者です。

エゼキエル書は紀元前593565年の間、バビロン捕囚の期間に書かれたと言われている。

 エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中に語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人です。

王が自分の役割を果たすことをせず、私利私欲に走るとどうなるでしょうか。中国や北朝

鮮のような汚職官吏が蔓延するでしょう。最近の日本でも、警官や教師を初めとする公務

員に問題が多くなりました。上層部に問題があるのではないでしょうか。

 

エレミヤの預言は、私たちが、周辺的な事柄に埋没することを許しません。

彼は真の王が来臨することを語ります。羊の牧者、羊を養う者を立てる、それはダビデの

若枝である、と言われます。今年も主の御降誕を待つ季節となりました。「その名はインマ

ヌエル」と記憶してきました。もうひとつの名が示されます。

236、「その名は『主はわれらの救い』ととなえられる。」口語訳は「正義」でした。

この世界は、正義の名のもとに多くの苦しみを経験してきたのではないでしょうか。

一つの宗教や政治の信条、世界観、価値観を標榜し、これこそ正義だとしてそれ以外のも

のを排除する。それが、現在この世界内で起こっていることです。

『主はわれらの救い』とはどういうことか考えましょう。ダビデの若枝、まことの羊飼

いは、人々の上に覇を唱えるのではなく、罪人の罪の赦しを得させるために、十字架の苦

しみを忍ばれた方です。王たる方が、僕となり、私たちの命を守ってくださいます。

 

ヨハネ黙示録は、キリストは私たちを王としてくださった、と語ります。支配者になるの

か、と驚いてもよいでしょう。本当は、全ての人に仕える僕としての王になるのです。

119日、函館から西北の方角? 海岸線をドライブしていました。この辺りの海岸が青

函連絡船洞爺丸が座礁した場所、七重浜と聞きました。アメリカ人・カナダ人宣教師が、

自分のライフジャケットを日本人に着せて、亡くなり、打ち上げられた場所。

函館湾は波穏やかで、あの日を思わせることは何もありません。

ストーン宣教師、Dリーパー主事(YMCA同盟)

御殿場教会のとき、YMCA同盟の東山荘へ良く行きました。ディーン・リーパー記念図

書室があり、所長さんから話を聞きました。たくさんの良い感化を残した方でした。

彼らは本当の意味で王となった人たちでした。