2013年2月17日日曜日

人を造ろう

[聖書]創世記12031
[讃美歌21]487,386,226,78、
[交読詩編]91:1~16、
 
本日の週報には、四旬節第一主日、となっています。これは、キリスト教会の長い伝統に基づく暦・カレンダーの呼び方です。レントと言う呼び方は、同じことのラテン語です。日本基督教団の中の偉い先生が、今から20年以上も前のことだった、と思いますが、復活前、または受難節と呼ぶべきだ、と主張されました。私が尊敬する熊沢先生は、反対され、その主張を発表されました。しかし、教団の大多数は、これを検討することもなく、流されて行きました。何よりも教団出版局が、定期刊行物にこの呼び方を採用したのですから、止むを得ない所でしょう。信徒の友、こころの友、教師の友、牧会手帳その他。
教団独自の神学的主張をしている時代でもあるまい。とりわけ、ひとりの神学者、説教者の主張に対し、会議制の教団が、一斉に右へ倣え、となるのは、認めがたい。
新しい主張は、主日本来の意味を忘れさせ、混同させる恐れがある。呼び方を変えるだけではなく、四旬節を棄てさせようとするもの。
違いよりも一致を求めよう。これは、役員会の討議を経ていません。
どうぞご意見、感想をお聞かせください。
 
 繰り返すことにします。
教会の長い伝統である。
他の教派と共通するものである。
主日の意味が明確に成る。復活に備えるのは毎主日が担っている。主の甦りを喜ぶ主の日。
主日を除いた40日間は、キリストの受難を偲ぶ時、十字架と葬りに備える時だ。
 
 さて、本題、創世記に入りましょう。
11、ベレーシース バーラー、初めに創られた、バーラーは、創造に関してのみ用いられる言葉です。それ以外では、アーサーという単語などが用いられます。漢字で、創、造、作などと書き分けるのと似ています。
創造以前の状況は、カオス、混沌、地も水も形なく、空しい空虚なものとなっていた。其処を満たしているのは暗黒。先が何も見えない、ものの形がなく、形を極めることが出来ない。しかしその上を神の霊が覆っていた。
 
光あれ、と言われると光があった。生きて働く神の言葉であり、力ある言葉である。
言葉とは何か。伝達、コミュニケーションの道具、それだけではなく、働きかけ、実現に至らせる力が盛られている。神の言葉は力だ。
光がもたらされなかった所が闇だ。夜は、闇が支配するときとされる。そこには神はいないのか。神の視線も届かないのか。人は、見られたくないこと、知られたくないことをこの闇の所、夜の時に行おうとする。
もし常に闇であり、夜であれば、我々の行き方は恐ろしいものになるだろう。
幸いなことに、明けない夜はないのだ。必ず昼の、光の時が来る。第一日。
 
神は、大空の上と大空の下に水を分けられた。この大空が天と呼ばれ、ここに開いた穴から落ちてくる水が雨となる。第二日。
 
天地創造の第三日には、大きな動きがあった。水が一箇所に集められ、そのところは海と呼ばれた。乾いた所が現れ、そこは地と呼ばれるようになった。さらに地に草を芽生えさせられた。地上にあらゆる木や草が作られた、ということ。地上の生き物たちのための食べ物が準備された。当然、次はそうした生き物たちの出番になる。
 
次いで第四日。昼を治める光と夜を治める光を造られる。こうして光と闇が分けられた。
この結果、被造世界には、昼、夜、季節、日、年が生じます。創造主による大きな秩序です。これが崩れる時、あるいは乱れる時、さまざまな不調和が生まれます。
 
第五日に至って、水の中の生き物、大空の鳥を造られた。水の中には、大きなうごめく怪物もいた。これは、海の中にいると信じられた怪獣、レビヤタンではないか、と考えられている。これらのものは、特に祝福される。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
 
こうして第六日を迎え、創造は、頂点に達する。
真打登場、という言葉があります。江戸時代から続く寄席は、数が少なくなりました。最初に足を踏み入れたのは、大学生の頃だったでしょうか。その後神学校の時も、教授の中に寄席へ行って、話し方を学びなさい、と教える先生が居られて、時々新宿末広亭へ行きました。
どうしたことか、芸事の好きな末の妹が、その道へ進みたい、と言うことで国立劇場の研修生となり、寄席の出囃子を弾くようになりました。やがて、八戸出身の噺家、桂小文冶と結婚しました。小文治さんの研究会やら何やらにも行きました。
 
この世界では、真打登場という言葉は、なみなみならない重みを持っています。その日のプラグラム全体が、その時に向かって構成されているように感じられました。
普段の寄席では、その日の出し物は決まっていません。出演者とその順番だけです。各人が、腹の中にしまっている。演目が重なる中で、自分がやりたいものを決めて行く、出し方も決める。よくよく考えた末のことになります。一見するとかなりちゃらんぽらんに見えますが、どうしてどうして、なかなかに緻密なものです。
 
天地創造、なかでも人間創造の場面を読むと、一切が、このときのために準備されていたように感じられます。「いよっ、真打登場!と掛け声をかけたくなるようです。
もう一度お読みしましょう。
 
「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに生み出せ。」
地の獣、家畜、地を這うものが造られた。そして、それら生き物の一つでありながら、別格のように作られるのが、はじめの人、男と女である。地上の生き物の一つでありながら、それらとは別格、と言うのは、それらを支配するものとして造られるからである。
 
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろうそして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』
 
いくつかの言葉を考えてみよう。
「我々」、神は唯一である、と信じていたのに、複数形で登場。詩編にも神がご自身を複数で表現されることがある。創322117。詩編811「神は、神々の中で、裁きを行われる。」(この神は、会議の長としての最高神ではなく、会議を見届ける神の証人性を示すもの、との説。20109月、宮田玲)。 従来は、御使いを含む神々の会議を想定した。私自身は、実体のない「尊厳の複数」と理解する。
 
「かたどり、似せて」。かつては、神の選民を呼号し、他民族を見下してきた。しかし今や、敗戦の捕囚民。どこに誇るものがあろうか。そんな人間が、神様の形に似ている、って嘘でしょ。そんなはずがないよ!
それに神といえば、目に見える形がないのだから、似ているかどうか、判るわけがないでしょう。
 
「形」とは何か?
形を、外側の見えるもの、手で触れることの出来るものと考えるなら、今もどこかに髭のながーい、腰の曲がったお爺さんがいることになりそう。
眼で見ることも、手で触ることも出来ない形がある。内面的、精神的な形である。大きく言えば人格性、と言う考えがある。神と対等な相手となる存在。
あるいは、神の尊厳こそ、と言う考えもある。
いいや、愛ですよ、とも言われる。永遠性、支配力もそのひとつ。綜合する。
こうした見えない形の中からひとつを選ぶ、絞り込む必要はない。
創造の神が発揮した性質は、自発性ではないだろうか。自由、と言って間違いはなかろう。2章、3章にも関わること。
 
「治めなさい」、地上における神の代理人である。
ローマ教会の教皇を指す言葉、と思われているだろう。しかし、創世記は、そのようなことは言っていない。造られた人、一人一人が、そのままに神の代理人である、と語っている。どれほど劣弱、醜怪、悪辣、非道であろうとも、その人は神の形を内包している、と語る。
 
バビロン捕囚のユダヤ人、エルサレムにいるときは、王侯、貴族、祭司、将軍、勇士、技術者として、国家に欠くことのできない有能な人たちだった。他の人々を治めていた。しかし、今このバビロンにあっては、納めるのではなく、治められ、支配されている。何の力も持たない。必要なものがあっても、作り出すことも出来ない無力な人たちである。孤影悄然たる人々。その彼らに、「あなたがたは、神の形を持っている。神の尊厳を内に包み持っている」、と告げられている。
このことに気付かされた時、私の心のうちに、熱いものが満ちてきた。
 
 
これらは、昔話、として聞き流しにもできる。余り意味のないものとなるだろう。
しかし、紀元前500年代のイスラエル人にとっては、そのような読み方、聞き方のできるものではなかった。現代の私たちにとっても同じこと。優劣強弱の違いがあり、弱肉強食が当たり前の世界。悲しみや苦しみがあり、多くの嘆きが生まれてきた。その時代に対し、本質的な平等を告げる。人間の尊厳が告げられる。
 創造物語は、また福音を告知している。