2013年3月10日日曜日

助ける者を造ろう

[聖書]創世記21525
[讃美歌21;575,297,363、
[交読詩編]145:1~13、
 
15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
 
啓蟄も過ぎ、全国的に春の気配となりました。しかし此処北海道だけは、問題外の気候です。連続した真冬日は途切れ、かなり融けましたが、まだ雪が降ります。融けて、凍って、降って、積もって、この繰り返しが分かってきました。ゆっくりゆっくり、時が動いて行きます。最近は日差しが強くなり、融ける量が増えているように感じられます。やはり春が、一歩一歩近づいているのでしょう。
金曜夕刻から吹雪、3時ごろに除雪車。土曜昼前にいったん終わりましたが、深夜から今朝にかけてまた吹雪。今年の冬は、一年前の冬とは全く様相を変えています。北国の豊かな多様性に驚かされ、嬉しい気持ちになっています。
『八甲田山、雪中行軍遭難事件』を思い出します。青森、弘前の連隊が、雪中行軍演習を行う。日露開戦を想定しての陸軍省の指示。酸ヶ湯温泉方面は、二つの低気圧が同時に襲ってきたためまるで双子台風並みの状況となり、青森連隊が遭難したものです。新田次郎さんは、この事件を気象予報官出身の作家らしい作品としました。
 
事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としていたことが挙げられる。日本陸軍は1894(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件から2年後の1904(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。
この演習は対ロシア開戦を目的としたもので、5連隊についてはロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森~田代~三本木~八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査する事が主な目的であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。なお、両連隊は、日程を始め、お互いの雪中行軍の実行計画すら知らなかった。
 
「寒いときにはバッハを弾きなさい。寒いからフーガを繰り返し弾きなさい。ゆっくり、単旋律で始まり、次々に音が重なり、指が動いて行く。寒いときには、フーガこそ最適の練習曲であり、最高の音楽です。健康法にもなります。」
ヨーロッパで活躍している音楽家が、師匠から教えられたこと。
バッハは有名な『フーガの技法』という作品を残しました。ヘルムート・ヴァルヒャと言うドイツの盲目のオルガニストが演奏した二枚組のLPがありました。たまにこれを聞くと、何かとても落ち着いたものが生まれることを感じたものです。北国の素晴らしさ。
 
前回は、最初の人・アダームが造られたこと、エデンの園から流れ出る川のことなど、お話しました。今回は、人が造られた目的、あるいは意義に関して学びます。
私たち人間にとってエデンの園とはどのようなものでしょうか。前回、楽園であり、実在しないユートピア、ということを考えました。私たちは、労働を嫌い、働かないで、楽をして生きられる所がエデンである、と考える傾向があります。アダームは、そうした楽園に置かれて生きたのだ、と考えたいのです。
 
しかし主なる神は、「人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。神は、造られた人にも、存在の目的、意味をお与えになりました。労働です。
創造主は、被造物に、エデンの園を耕し、守る仕事を与えられました。
エデンの園は果樹園。エゼキエル318にはさまざまな木の名前が出てきます。香柏、モミ、ケヤキ。創世37にはイチジク。
エデンの園は、神の造られた所、其処も守るもの、耕す人を必要とされました。その必要を満たすのは、人・アダームです。人・アダームは、必要とされているのです。
今の世界にも、自分自身の生きる意味が分からない、と言って悩む人がいます。多くの場合、自分は誰からも求められない、必要とされていない、と考えています。
私たちひとり一人は、神によって、根源的に求められています。
 
 ただし、無制約ではありません。園の中の全ての木は、好ましく、食べるに良いものをもたらす木です。その全てから、取って食べることが許されました。「ただし、中央にある善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と禁じられました。これを読むと、神様は、なんと意地悪なのか、と感じます。食べてはいけないものなら、抜いて、見えないところに持っていけばよいのに、とも言うでしょう。
『食べてはならない』という禁止、制約は、『死なないように』という、神の人に対する愛に基づいています。更に神は、この愛に対応する人の愛を求めています。これが人格的関係、という言葉が示すことです。
創造主は、人を御自分との人格関係へと招いておられます。
 
 制約、禁止を守る、労働をする、というとき、人は助け手が必要になります。
いつの頃からか、「嫁を持たせにゃ働かん」と言われて来ました。
創造主は、多くの生き物を作り、アダームのところにつれてきました。彼は、それを見て名をつけましたが、思わしいものはいません。
名前をつけると言うことは、そのものを知ること、支配・被支配の関係になることを意味します。犬も猫も、創造主の意図した、助け手の関係ではなかったのです。
 
 ついに神は、アダームのあばら骨の一本を抜き取り、それをもって女を作り上げました。
アダームは、この女を見て言います。
「ついに、これこそ  わたしの骨の骨  わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう  まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
 
男が先に造られたから偉いのだ、女は男の一部分の価値しか持っていない二次的存在、と主張された時代もあります。ここで語られているのは、そうしたことではありません。これは、時間的な順序や、値打ちを決定しようとするものではありません。ここで言い表されているのは、アダムが、イスラエルが見出したものは何か、ということです。彼は、かけがえのない自分の骨肉を見出した、と言っているのです。これを欠いては、自分自身が全うされない存在。本来的な同質性、一体性を示します。アダーマー(土)からアダム(男)、と同様のヘブライ語の言葉遊び、語呂合わせがあります。
 「人、独りなるはよろしからず。」
この言葉に関して、あるところで質問されました。
「この言葉は、すべての人に当てはまるのでしょうか。また、結婚のことだけを言っているのでしょうか。私は、独身です。」中年の女性でした。
結婚に定められていない人も居ます。パスカル、コルチャック先生もその一人でした。
高知教会の多田素先生、北森嘉蔵先生も終生独身でした。
全ての人は、婚姻関係を超えて,助け合い、応答する人格関係に招かれています。
 
24節は、ユダヤの結婚観の根底の考えです。元来、イスラエルでは、男と女とは互いに相思相愛の共同体を作り、家庭をもつのが当然とされていました。原始社会の乱婚から発した婚姻関係の発展した形を示しています。
 
25節「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とあります。彼らは未だ罪を知らず、恥の意識も生じなかったのです。「恥は、罪の外的表現である」と言われます。
 
第二章は、ダビデ・ソロモン王の統一王国時代に編集され、読まれたものです。
当時、イスラエルは大変な繁栄を誇っていました。領土も最大になっています。ハマテの入り口から紅海まで、と言われました。諸国の富が入ってきました。物が動く時には、人も付いて来ます。そしてそれら人や物に関わる考え方も付いて入ってきます。
そうした中で、名前を伝えられていない預言者が、神の民イスラエルとは、このような存在なんだよ、と語りました。それが、このヤハウェ資料です。
わたしは、これをイスラエルの信仰告白だ、と考えた時、感動しました。
多くの者が、全く違う道、偶像礼拝へ走るとき、自分の信仰を告白し、神の御心に従え、と語りました。宣言しました。私たち一人一人にたいする信仰への招きです。