2013年3月24日日曜日

禁じられた木の実

[聖書]創世記317
[讃美歌21]152,363、
[交読詩編]118:19~29、
 
 
今年は、雪の多い冬でした。積雪が100センチを超え、なかなか融けませんでした。それでも35日、啓蟄を過ぎて、着実に地熱が高くなってきているのでしょうか。320日ごろには、突然のように減っていました。気付かないうちに着実に季節は進み、春が始まっているようです。先日は、星置駅からJRで帰ってきました.。途中市立大学のあたりから見えるポプラ並木が、うっすらと緑がかって見えました。間もなく新芽が吹くことでしょう。啓蟄は、地中の虫が、地表面に出てくる時。蛇なども出て来るでしょう。
 
今年は、わが国の干支では、蛇に当たります。蛇は、音もなく近寄るので気持ち悪い、などと言われます。じっと瞬きもせず見詰め、赤く細い舌を、チロッ、チロッと延ばすのも気味悪い、と言って嫌われます。しかし、同時に蛇は、幸運をもたらす守り神のように考えられているようです。とりわけ白い蛇は幸運を招く、青大将も家に居つくなら家運隆盛間違いなし、として歓迎されています。昔から、ネズミを食べる蛇は、農村では歓迎されてきたようです。
諸外国ではどうなのだろうか。創世記の影響がある国では、蛇は悪魔の代名詞のように考えられてきました。
 
蛇の実体は、どのようなものでしょうか。手も足もなく、地面を、長いからだをくねらせながら、音もなく進む。表面は光沢があり、輝き、ぬめぬめと粘りつくような感じ。
そればかりではない。なかなかの美形です。
昔、上野動物園で見た網目ニシキヘビ。太く長い生き物。傘をかぶった裸電球の下、とぐろを巻いたまま身じろぎもしない。時たま、呼吸をするので胴の部分がピクッ、と動く。
重量感があり力が漲る感じで美しい。
触ったことがある人は、皆さんおっしゃいます。蛇のからだは、冷たくて乾いた、サラサラの感じです。蛇を愛玩物扱いする人が、意外と居られることにびっくりさせられます。
 
創世記31は、なんと言っているでしょうか。「蛇は、神のお造りになったものの内、最も賢いものであった」。口語聖書を初めいくつかの訳は、「狡猾」としています。
 
蛇は、大変賢い。賢さは、その使い道を誤ると大変な結果を招くことになる。
 
このところの伏線は、2916に敷かれています。
「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」
「主なる神は人に命じていわれた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
 
初めの人アダムが造られ、木の実に関する言葉が語られ、その後になって、相応しい助け手、女が造られました。相応しい助け手は、この禁止の命令を守ることにおいても、助け手になるはずです。
 
蛇は女に対し、巧みに質問します。創造主なる神に対する疑いを引き起こさせようとするものです。「本当に言ったのですか」
この質問は、神の言葉とは正反対です。女は、簡単にそれを退けることが出来るはずです。
詐欺師は、多くの真実の中に、小さな嘘をはめ込むものです。全体を嘘で固めるようなことはしません。それでは、すぐに見破られます。
詐欺を成功させるためには、相手の側に混乱がなければなりません。何か、関係の深く強い所で問題がおき、それがあなたにも深く関係するようになります。このような形で、相手の中に不安を引き起こします。此処では、食べるなと言われたのですか、と言う質問です。労苦せずに食べることができてきた。その食べ物を奪われたらどうなるか。
恐れと不安、女の中に混乱を引き起こしました。
 
女は、自分が直接知ってはいないことを、知っているかのように答えます。
現代法曹界では、直接見聞していない事柄は、伝聞証拠として慎重に扱うことにしています。時には採用しないこともあります。伝聞から推定に進むときでしょう。
 
3節には女の答えが記されます。注意深く読んでみましょう。ほんの少し、神の言葉が、変えられます。
「食べても良いのです」。事実は、「取って食べなさい」と言われたのです。
生存のために不可欠なもの、食べるも食べぬも心のままに、とは言われないのです。
女の答えは、食べることにおける、人の自由意志を主張しているのかなとも感じられます。
 
女の答えです。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」。
中央には二本の木があった。そのどちらが禁じられたのか、意識的に曖昧にされています。
触れてもいけない、とは言われていない。女が追加しています。取るな、食べるな、を強調しているのでしょう。
 
「死んではいけないから」。神の言葉は、必ず死ぬ、というものでした。死ぬことのない様に、厳しく禁じられました。必ず死ぬから、取るな、食べるな。行為の明らかな結果を示しています。女の言葉は、神の言葉の厳しさを緩和することになります。
 
一連の問答の中で、蛇の言葉は、巧みさを増して行きます。
「あなたがたは決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存知なのだ。」
蛇の言葉は、真実を主軸にしながら、それに対する少しばかりの疑いと、少しばかりの付け加えによって、自分にとって好ましい結果が得られると信じ込ませることを狙います。
 
好ましいものを食べると、目が開け、神のようになる。善悪を知る者となる。決して死ぬことはない。これが、蛇の言葉です。
蛇は、女に木の実を食べることを勧めます。
多くの誘惑が成功するのは、される者の側に、それに乗りたい気持ちがあるからです。
女にとって、見るに良く、食べるにおいしそうな木の実がある。触れたい、取りたい、食べたい。一口くらい大丈夫だよ。でも心配だなあ。
蛇が保証してくれました。死ぬことはない、と請合ってくれた。
そればかりか、善悪を知る者となる。期待以上の結果になるのでしょうか。
 
神のようになりたい、これは、ダビデ・ソロモンの統一王国時代のイスラエルの人たちにとっても大きな望みだったのでしょう。いつの時代になっても、人間の欲望は、変わることはありません。更に大きく、強くなります。地位、権力、財産、名誉、賞賛。
 
蛇は、人間の欲望が叶えられる、と保証します。
多くの文学作品が主題とするのは、欲望の充足が人生の主題・目的なのか、と言うことにあるでしょう。それが充足されない人生は、挫折、失敗なのか、と考えます。
石川達三著『青春の蹉跌』(毎日新聞に連載、若い男女がそれぞれに目標を持っている。その達成に励む。)
それを聞いた女は、恐れながらも手を伸ばす。取る、男に渡す、食べる。
 
 ここで問題が生じます。一切は女の責任であって、男は誘われて従っただけで、責任はない、と言うものです。女は男のあばら骨一本分の値打ちしかない、と言うのと同じ類です。女性を二次的、副次的存在としたい人たちの主張です。
聖書は、あくまで同等の責任があり、平等、対等な助け手である、と語ります。
 
禁じられた果実を食べた結果、何が起きたでしょうか。二人は、創造主なる神と等しい自分を見出したでしょうか。
目からうろこが落ちたように、彼らの目が開けました。
7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
人間の衣装は、飾ることよりも、身を隠し、守ろうとするものでした。
 
彼らは、神のような創造の力を持つものになることを期待しました。実際に見出したものは、互いの裸の恥でした。罪の姿だったのです。
偉大な神、全知全能、全ての人から仰がれ、礼拝される神の姿を見出しただろうか。
木の実を食べた結果見出したのは、裸で、それを隠したいと考えている自分たちでした。
ありのままの自分の姿は、神の禁止にもかかわらず、それを破った人間であり、相応しい助け手の発見でした。神との約束を破り、神のようになった、と錯覚しているイスラエルだったのです。これこそ、現代の私たちの姿でもあります。
 
このところを読むとき、現実のイスラエル王国の人々に向けた予言と考えるとよいでしょう。自力で繁栄を作り出した有能な人々。偶像礼拝をその国の中に引き入れて親しく交わる人々。エジプトから先祖を導き出してくださった神を忘れる忘恩のイスラエル、かれらに対して語りかけられています。そして、いつの時代でも、同じ状態の人々に問いかけ、神のもとへ立ち返るように招いてくださっています。
創造の秩序のうちに立ち返りなさい。待っていますよ。