2013年5月12日日曜日

知る力と見抜く力


[聖書]フィリピ1111
[讃美歌21]194、227、530
[交読詩編]93:1~5、

例年より厳しく、長い冬が、ようやく春に場所を譲ってくれたようです。桜の開花宣言が出ました。近隣では、ツツジが咲き落葉松の葉が大きくなり、芝生が青々として、太陽は暖かい香りを注いでいます。北海道生活の醍醐味でしょうか。34日、雨が降ると2日ほど晴れる。この繰り返しで春を飛び越えて夏に向かうのかな、と感じてきました。もちろん、桜や梅が咲く春は、間違いなく来るでしょう。咲いている間だけが春で、それが散ると、夏が来るのではないでしょうか。予想を超える激しい変化があって、とても面白く感じています。

 さて、本日は、17以下を学ぶことになります。

78節は、パウロの愛の告白と言いたいほどのものがあります。一般的な、恋愛感情とは違います。彼が、その愛する者たちを思い起こす時、喜びをもって祈るような、愛を意味しています。
 パウロは、自分の愛は「キリストの心」(8節)であると語る。
「キリスト・イエスの愛の心で、あなたがたを思っている。」
「キリスト・イエスの熱愛をもって愛している」。このようにも訳せます。
熱愛は、スプランクナ。心臓、肺臓、肝臓、腎臓など内臓を指す言葉。心が所在すると考えられ、特に愛、悲しみ、怒りなど深い感情が発する所と考えられていました。常に複数形で用いられます。キリストによって引き起こされる深い愛情を指しています。
 このようなパウロの熱愛は、三つの性格を持ちます。
パウロは、ピリピの教会に対して、誠意を尽くしています。それは、他人からの働きかけに応える愛ではなく、こちらから働きかけて行く愛なのです。
「あなた方一同に」対する愛です。教会の中の協力者だけではなく、反対する者たちも含んでいる、と前回お話しました。4節の「あなた方一同」。
そして、ただ、神だけが、そのことをご存知であり、証明してくださるのです。

 私たちは、愛があれば、何事もなく、完了する、と考えたい者です。「愛があれば大丈夫」。

しかし、現実はそうは行かないことを知っています。愛があるから問題が起こるし、愛があるから解決が困難になる、ことを知っています。確かに、愛し方が悪いことがあります。愛してはならない相手があることも理解できます。それぞれが、ご自分のこと、あるいはご家族のことなどで経験しておられるとおりです。
 

パウロは、フィリピの教会、その信徒を愛します。彼らが、信仰的に成長、発達することを求め、祈っています。私たちは、愛は、そのあるがままを愛するもの、と知っています。同時に愛は、その人の成長、成熟を求める者です。人は、愛されて愛を知り、その愛に相応しい者へと成長、成熟して行きます。そこでパウロは祈ります。

9節、「わたしは、こう祈ります。」

「知る力と見抜く力を身に着けて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

口語訳は、次の通りです。「あなた方の愛が、深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、・・・何が重要であるか判別することが出来、」

「知る」、識の字を使うこともあります。知ることには、学ぶこと、理解すること、考えること、記憶することなどさまざまなことが含まれます。そのうちのどれだろうか、悩む必要はありません。総合すればよいのです。

もっと大切なことがあります。ユダヤの民は、幼少の頃から聖書を学びます。箴言17

「主を恐れることは知識の始めである。」知る力とは、主を恐れることではないでしょうか。恐れを知らないでいると、自分自身を主の座に立たせるようになります。自己神化です。

「見抜く」とは、事柄の上辺を貫き、その奥に潜む真実に触れること。すなわち隠された奥義に到達すること。「感覚」は、道徳に関するあらゆる感覚である、とされます。口語訳は、「鋭い感覚」としました。ことの善悪を見抜くのだから、鋭いのでしょう。

『宗教とは、すべての事柄の第一原因を神に求めることである』と定義した人がいます。すべてのことには、隠された秘密・ミュステーリオンがあります。これが、神の奥義であれば、人間の側からは、決して到達することは出来ないでしょう。
しかし神が、これを開いてくださるならば、到達することが出来ます。これが啓示です。
アポカルプトー、覆いを取る、正体を現す、暴露する、
(今までミュステーリオンであったものを誰にも分かるように)明らかにする。啓示する。
アポカルプシス、現すこと、覆いを取ること、出現、啓示、黙示。

パウロは、此処で単なる謎解きを勧めているのではありません。神を知る知識を語っています。
知る力と見抜く力は、人間の理性と考えます。しかし理性が、神を知る知識になるわけではありません。しばしば、自分自身の利益を考えるでしょう。

パウロも、決してそれで良しとはしません。その結果、「愛が豊かになり」と語ります。物事を知り、見抜くことができたとき、その蓄積された情報に、愛という蝕媒を加えると化学変化が起こります。すると、何が重要か、正しく判断することが出来るのです。そしてこの愛は、どのようなものでしょうか。触媒は、それ自体は変わらないで、他のものに働きかけ、それを変える力を持つもの、と習いました。私たちの愛は、いつも、それ自体が変化し、大変不確実なものです。触媒になるのは、キリスト・イエスの愛であり、それによって引き起こされる愛である、と示されます。



パウロは、律法を学びました。当時の大学者ガマリエル先生の弟子として、高く評価されていました。たくさんの知識や大勢の人からの賞賛は、彼にとって「損失」と考えるようになります(378)。

「そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切のことを損失と見ています。」

口語訳は次の通りです。
「私の主キリスト・イエスを知る絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている。」

10節、後半から、祈りのまとめとなります。何を求めているか、明らかにします。
「キリストの日」は、旧約における「主の日」(アモス520、ゼファニア114)をキリスト教的に言い換えたもので、再臨すなわち、キリストの出現のことです。

パウロの祈りは、二つの懇願で締めくくられます。愛において成長、成熟することと神から与えられる義の賜物の成就としての生活をすること。

愛は、情緒や感傷ではなく、学ぶこと、理解することに結びつき、重要なことについて、善悪の理に適った選択をさせるもの・力です。ローマ122は次の通りです。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」

10節、キリスト者は、アプロスコポスになること、「とがめられることのない者」になることを求められています。

プロスコポス、(プロスコプトーを語源とする)、向かって打ち付ける、ぶっつける、ア、は接頭辞として否定、共通、強意等の意味を付加する。

この語は、他の人の躓きにならないことを指しています。人を罪に導かない、責められるところのない。此処では複数形が用いられている。誰かひとりの人ではなく、信仰の仲間全体に語りかけているのです。

パウロは、牢獄の中から、愛にあふれ、喜びと讃美に満ちた手紙を書きました。それは、暗い闇の中にありながら、光り輝いています。そして、私たちすべての者を、この秘密へと招いています。暗黒の中に輝く光へと、歩もうではありませんか。