2013年5月5日日曜日

神に感謝し、祈る


[聖書]フィリピ1111
[讃美歌21]194,482,495、
[交読詩編]95:1~11、

前回、気になりながら、お話できなかったことから、始めましょう。受信人たちです。

先ず「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」、以前は、「にあって、にある」と訳されました。「あって」エン トー クリストー、英語のINが用いられています。キリストの中にある、と言いたいのでしょう。合致する、適合する、一致、などさまざまな考えが可能です。新共同訳は、『結ばれている』という訳を採用しました。血が通うような結合、と理解されることを期待しているのでしょう。生命的な、一緒に生きている、という感じが出ている、と感じます。

「聖なる」、ハギオイスという言葉は、日本語の聖人とは、かなり意味が違います。修行して、世俗からは特別な人になる聖者とは違います。神のものである、あるいは、神のご用に当たる者、という意味です。悔い改めた罪人すべてが、聖なる者です。

「監督たちそして執事たち」、(エピスコポイス カイ ディアコノイス)、
エピスコポス、監督、管理者、保護者、NTの監督は、いくつかの群れを主宰するものではなく、ひとつの群れに複数の監督がいた。彼らへの尊称が長老であった。ディアコノス、食卓の給仕人ディアコニアから発する。奉仕者、教会の実務的奉仕者、世話役、奉仕者たちという翻訳もあります。通常『執事』と訳されています。

組織としての教会は、役職を備えていますが、その名称は、この二つのほかに牧師(ポイメーン)、長老(プレスブテロス)が、よく知られています。

ポイメーン、羊飼い、牧者、群れの先頭に立って、青草と水のあるところに導く。外敵と戦い群れを守る、エフェソ411。キリストはすべての者の大牧者である、ヘブ1320、Ⅰペトロ225
プレスブテロス、年長の者、老人、LXXでは使節、使者を指した。ヘブルでは、重要な指導的ポストにあるものを指した。サンヘドリン(七十人議会)の議員、町や市の指導者、教会の長老、これは正式に選出され任じられた者(使徒11302017、ヤコブ514

本来これは主ご自身が育て、作る者であり、それを見た人々が「この人こそ我々の霊的長老だ」と認めて、選ばれ、任じられる者。(エピスコポスは、彼らの機能面を指している)

日本基督教団は、教会が保持している伝統に従って、呼び方を選ぶことを認めています。
私の経験では、「長老、執事」を順序をつけて用いる教会。幹事、長老、役員があります。
これらは、いずれも教会運営に当たる者たちへの呼び名の性格が強かった、と感じています。本来の、信仰の先達であり、尊敬される者たち、という性格は余り感じられませんでした。私たちの教会では、役員と呼びます。かなり、組織運営に当たる者、という性格が強く感じられます。役員は、信仰の先達、霊的指導者であることも忘れず、敬意を払っていきたいものです。選挙に当たっても、この二つのことを忘れないようにするべきです。

パウロは、二つの語、『恵みと平和』を挨拶に用いました。信仰に基づく誠実さがよく顕われるものです。恵みは、上位の者から下位の者に、対価なしで与えられるもの。

パウロは、このことばで、すべての罪人の罪の赦しを意味しています。そして平和は、戦争、争いのない状態を指すものですが、聖書では、より内面的な、心の平和を指し示します。ここにおいて、二つのものが一つのこと、罪の赦しに結び付けられてきます。

この挨拶のことばは、もうひとつのことを指し示しています。

カリス、恵みという語はギリシャの日常的な挨拶のことば。エイレーネーは、ヘブライの言葉に直せば、ユダヤ人の日常的な挨拶の言葉シャローム。パウロは、フィリピの教会の二つのグループ、ギリシャ人とユダヤ人の集団の仲たがいを心配していたように考えられます。ひとつのように見られるフィリピの教会、その中にも対立があり、争いの種が絶えることはありませんでした。パウロは、心配していました。この二つをひとつに纏め上げることを願って、二つのことばを並べて用いたのです。バランスよく挨拶する、という細やかさを感じます。

さて、本日の部分、3節以下に入ります。この部分は、難しい文章です。主文は、『思い出す度ごとに、祈りの度ごとに、神に感謝している』。その理由を次のように書きます。
『最初の日から今に至るまで、福音に与っているからである』。ドン・ボスコ社の訳は、ほとんど、これと同じです。

思い出すたびに神に感謝し、祈るたびに、喜びをもって祈っている。

此処で、与っている、と訳される語は、コイノーニアです。本来「共有する、共に与る」。何を共有するか、金銭、苦難、働き、感謝、恵み、祈り、苦難その他何を共有するかによって、訳は変わります。この手紙では、何回もこの言葉が用いられます。そこで、ある註解者は、次のように書いています(クラドック、p45)。

「フィリピの教会、信徒は、これほどにパウロの宣教と福音の語りかけに完全に一体化していることを証明している」。

実は、36節の部分で、4節は挿入されたもの、と指摘されています。一体化しているようですが、大変細かい配慮を必要とする食い違いがあったようです。この最初の宣教地にあっても、後々まで災いすることになる、ユダヤ人たちの妨害があったのではないでしょうか。フィリピの信徒とはうるわしい信頼関係を築いているけれども、後から入り込んできて、悪い噂を撒き散らす人々によって、動揺するのではないか、と心配していた、と考えられます。

それでもパウロは、分裂を引き起こす狙いの人たちをそしり、退けようとはしません。

「あなた方一同」のために祈ることを明言します。パウロと親しい者だけではなく、対立的、反発的な者たちも祈りのうちに捕らえています。

こうした反対勢力がいたことは、32「あの犬どもに注意しなさい」という文章が、明らかにしています。彼らは、ユダヤ人の律法主義者でした。似て非なるものには注意が必要です。パウロは熱心なファリサイ派のリーダーだったようです。かつての仲間から裏切り者とみなされ、執拗に狙われました。キリストを信じる者たちの中に入り込んで、対立と争いを引き起こそうとしていました。

今日、キリスト教を標榜しながら、全く違うものたちがいます。キリスト教年鑑にもその名前が、キリスト教団体として掲載されています。出版社の人に聞いたことがあります。掲載料・協賛金、広告料の収入です。勘弁してください。という答えでした。私たちが、充分気をつけて見分けなければならないようです。見分け方があります。

イエスを唯一の救い主とするか。預言者に過ぎないとするグループがあります。

66巻の聖書を唯一の正典とするか。他に、~経典などを最上のものとしています。

主イエスの甦りを信じ、日曜をその記念の日、主の日としていますか。

土曜を安息日とする人たちがいます。

この三点は、直ぐに分かります。キリスト・イエスではなく、ユダヤ教なのです。

あるいは、全く新しい教祖を頂く新興宗教です。

それは結構ですが、キリスト教の名を利用しないで戴きたいものです。

そのような反対者たちがいても、主なる神は、始められた善い業を、キリスト来臨の日までに、完成してくださる、とパウロは確信しています。だから、喜びは消えることがありません。私たちの信仰を崩そうとして、狙い撃ちしてくる者たちがいます。足元ではなく、遠い先にある望みを見詰めましょう。喜びと確信が沸いてきます。