2013年7月21日日曜日

肉に頼る者たち

[聖書]フィリピ3111
[讃美歌]419,152,395、78、
[交読詩編]107:1~9、

第3章は、フィリピ書らしい言葉で始まります。「喜びなさい」カイレテ エン キュリオー
それに続く2節には、驚くべき言葉が出てきます。
「あの犬たち」、パウロは手厳しい嘲りの言葉でユダヤ人のある者たちを呼んでいます。
彼らは、もともとパウロの同胞、仲間であった、と考えられます。そして、律法というユダヤ人共通の基準を裏切った、と受け止めています。自分たちユダヤ人の誇りを汚辱の中に叩き込んだと感じているようです。パウロに対して殺意を燃やしています。
三次に渉る伝道旅行の間も、彼の後を追いかけ、活動の邪魔をし、教会の中に入り込んで分裂を仕掛けたりもしました。
言行録2312は、パウロを敵視するグループがあったことを告げています。
「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた、このたくらみに加わった者は四十人以上も居た。」
これは、21章の出来事からの続きです。第三次の旅行も最終の段階、ミレトスでエフェソの長老たちに別れを告げ、船出して、ティルスの港に着きました。更に船で沿岸を南下しプトレマイスに着き、カイサリアを経てエルサレムに上ります。
言行録2127、「七日の期間が終わろうとしていた時、アジア州から北ユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所(神殿)を無視することを、至るところでだれにでも教えている。・・・」
パウロは、このユダヤ人グループに対抗して、皇帝への上訴、という非常手段をとりました。パウロが居なくなっても、その活動の結果を破壊しようとして、各地に出没していたようです。

今やフィリピの教会は、たいへん危険な敵対者の目標となっています。パウロは、律法主義のユダヤ人たちによる、キリストの教会の混乱と分裂を恐れています。
パウロは声を大にして警告しています。律法、人の行いによって義が得られるならば神の恵みは無になり、人の業績が脚光を浴びることになる、と(ガラテヤ21621)。
『救いは我々のもとにあるのではなく、神のもとにあるということである。割礼を誇ってはならないのと同様に、無割礼を誇ってはならない。安息日を守ることを誇ってはならないのと同様に、安息日を守らないことを誇ってはならない。宗教的な思い上がりは、ユダヤ人の専売特許ではない。』クラドック、P 102
福音ならざる福音は、今日の教会の中に、また私たちの中にも見られるのです

 パウロよりも前の頃から、帝国内においてユダヤあるいはユダヤ人には、幾つかの印象が定着していました。
先ず、やかましい民族だ。論議が大好き、些細なことでも論じ合うことによって、決着をつけようとする。ローマの喧騒もかなりのものですが、旅行者にとっては、たまらないほどのものだったでしょう。
 次は、宗教に熱心であり、先祖伝来の神に対して、忠実である、という点。ヤハウェの神を信じて、その掟を堅く守る。帝国の皇帝礼拝を守ろうとしない。これは独立、自立の動きとなり、国家への反乱が起こりそうだ、と恐れられ、疑惑の眼差しで見られていました。60年代半ばから小競り合いが始まり、70年のユダヤ戦争となります。
 第三は、これと関係が深い、と考えられます。清らかな結婚生活、ということでしょう。
当時のローマでは、王侯貴族たちの間、いわゆる上流の人たちの間で、男女関係の乱れが普通に見られました。それは凄まじいものだったそうです。
心あるローマ人の中には、そうしたことを避けて、ユダヤ教の清潔な男女関係・一夫一婦の制度に心を寄せる人も少なくなかった、と言われます。
 
言行録182に、このような記述があります。P249
「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。此処でポントス州出身のアクラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。」
これはローマ上流階級の娘が、ユダヤ青年と結婚したひとつの例と推測されています。何よりも清潔な結婚を求めたのでしょう。ユダヤ人同士の喧嘩・口論の騒ぎを理由とした有名な追放に際し、共にローマを出てこのコリントまで下ってきました。

私たちが、生まれてこの方、意識を持って生きるようになってから、どのように生き、何を求めてきたでしょうか。簡単な言葉を用いれば、それは幸福の一語でしょう。ただその後が全く変わります。幸福実現のために何をするか、しないか。
*集め、積み上げる傾向。学問知識、実績、賞賛、名誉、地位、財貨。これらによって幸福になる。
*散らし、与える傾向。財貨、賞賛、実績、名誉、地位。これらがなくても幸福。
たとえ、自分が努力して作り上げたものでも他者の業績として、それを推奨する。
結実も他者に分け与えて喜ぶ。他の人たちの喜びを主キリストが喜ばれるから、私も喜ぶ。
そのためには、自分の権利、特権さえも譲ってしまうことができる。
 
実はパウロが、その前半の人生において求めていたものも同じことでした。
パウロの人生を決定的に変えてしまうものは、キリストとの出会いです。

 主イエスとの出会いが、人をこれほど大きく変えてしまったのです。

水野源三さんという詩人がおられました。この人は,193712日生まれ。私より3年前の同日。198426日帰天。長野県の町のパン屋さん。9歳の時、集団赤痢のため脳膜炎を発症、以来寝たきりの生活となる。話すことも書くことも出来ない生活。宮尾隆邦牧師が訪問したことにより、聖書を読み、13歳、信仰に入る。母の努力もあり、瞬きによる対話が生まれ、讃美の詩歌を作り、発表するようになる。その作品は「信徒の智」市場などで読まれるようになり、好評を得る。詩集も作られ、更にそれに伴い、音楽作品も作られ演奏され、喜びをもって聴かれるようになっている。『瞬きの詩人』として知られる。
私は、岩槻教会の青年で、青山学院大学聖歌隊の卒業生、金子兄からCDを頂いて愛聴していました。大阪時代、ある音楽家がチャペルコンサートのご奉仕をしてくださった。感謝のしるしに、このCDを差し上げた。PCに入れてあるはず、と思って。ところがなかった。大失敗、後の祭り。以来67年も聞いていなかった。ようやく彼に再送してもらった。金曜日、届き、早速、久振りに聞くことができました。懐かしさと、感動と、喜び。
水野源三の詩による讃美曲集、『こんな美しい朝に』』第Ⅰトラック。
  川口耕平作曲、藤本敬三指揮,青山学院大学聖歌隊

《キリストにお会いしてから》
一、戸をかたく しめきっていた
部屋に入ってこられた
キリストにお会いしてから
きりすとにおあいしてから
二、その両手と 脇腹に
  きずあとが いたいたしい
  キリストにお会いしてから
  私の心が かわった
三、信じないものに ならずに
  信じなさいと言われた
キリストにお会いしてから
私の心がかわった
お会いしてから

皆様には、是非、キリストにお会いしていただきたい、と願っています。
礼拝は、本来、今も活けるキリストにお会いする時です。私は説教者ですが、キリストにお会いしたいと願っている皆様のお邪魔になっているのではないか、と恐れています。
出会いの邪魔をするような説教者は、呪われてしかるべきです。

自分のために集め、力を誇るよりも、他の人の喜びのために散らし、与える生き方へと、心が変わる。そこに生まれてくるものは、深いよろこびです。幸せです。嬉しいことです。
感謝して、祈りましょう。