2013年7月7日日曜日

テモテを派遣する

[聖書]フィリピ21924
[讃美歌]194,17,504、
[交読詩編]119:105~112、

此処で名前を挙げられたテモテは、どのような人物でしょうか。教会では、しばしば青年テモテ、と呼ばれます。どんな人にも青年期があれば壮年期、老年期があります。にもかかわらず、いつまでも青年と呼ばれるのは、彼の活動が伝えられるのが使徒言行録によっており、そこでは青年時代のことだけだからです。言行録、手紙の中から、彼の姿を見つけてみましょう。
パウロの書いた幾つもの手紙に、共同発信人として名を連ねています。
パウロの第二伝道旅行以来、ローマに至るまで、絶えず彼の側近でした。
年若いが、信頼された弟子であり、協力者(スネルゴー、力を共にする、の意)。
コリント(Ⅰコリント41718)、テサロニケなどに派遣され指導に当たります。
その信仰は祖母ロイス、母ユニケから受け継いだものでした。
伝承によれば、65年、テモテはパウロにより主教の按手を受け、エフェソの主教となる。
80年または90年ごろ、エフェソで殉教。正教会では「聖致命者、使徒」と称される。

最初の登場は、使徒言行録161節、パウロの第二次伝道旅行の途中のことでした。
「パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父親に持つ,テモテと言う弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。」(パウロは、テモテを同行者とするため、彼に割礼を施した。)
すでに立派な成人として登場します。実は,祖母や母も、パウロの第一次伝道旅行に際し、パウロによって入信した、という説もあります。
家族の信仰継承については、テモテへの手紙その二15に書かれています。
「その信仰は、先ずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると確信しています。」
父親はギリシャ人ですが、その信仰に関しては、何も触れられていません。家族内での、信仰伝達の難しさを示しているようです。

この手紙を書いたパウロは、フィリピ教会へテモテとエパフロディトを送ろうとしています。荷物を送るのではありません。現代日本の人材派遣とも違います。私の第一印象では、これは宣教師の派遣と似ている、ということでした。
ある教区に居た若い頃、新しくおいでになったアメリカ人宣教師を訪ねることになりました。教区通信に紹介記事を載せるためです。予備知識なしで、行きました。日本人であった夫人が一緒に現れました。話すうちに、色々分かってきました。
奥様も宣教師であること。ふたり一組で派遣されてきていること。紹介は一緒にすることになります。などでした。

思い出しました。多くの宣教師は夫人同伴が当然であり、夫人も同じ宣教師であったことを。例外は、甲府でお目にかかった婦人宣教師、この方は教育職についておられたためか、お一人だったように見えました。伺わなかっただけで、お二人で来ておられた可能性はあります。
教会は、宣教に派遣する時、原則的にふたり一組を採用してきました。私が知る所では、ホーリネスの群れ、ホーリネス教団は、国内の牧師であっても、神学校を卒業して赴任する者は、結婚して行くように積極的に勧めています。神学生の男女の数の違いもあり、難しいと思いますが、ご夫婦で牧師として一教会に仕えていることが多いようです。
ルーテル派の教育宣教師も単身のようです。

教会の伝統は、多くの場合、聖書に起源があるものです。
主イエスは、12人の弟子を選ばれました、「使徒と名付け」、ご自分のそばに置くため、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためでした(マルコ313以下、マタイ、ルカの平行箇所)。実際の派遣は、どのようになされたでしょうか。マルコ66b13では、「彼らをふたり一組にして派遣された」、とあります(マタイ、ルカの平行箇所)。

72人が任命され、二人一組で派遣され、帰ってきたことは、ルカ10120に記されています。これは、イエスが行くはずのところへ、先駆として派遣されています。この72人の件は、ルカだけが伝えています。

ギリシャ語聖書は、70人が選ばれた、と伝えています。日本聖書協会訳の聖書は72人と訳しました。
サンヘドリン・最高議会は別名七十人議会。モーセが選んだ長老は70人(民数11161742)当時世界の国数は70と考えられていた。これらと平仄を合わせて70人だったのではないでしょうか。
ヘブドメーコンタは70である。72126倍の意味か。協会訳の72人は、その根拠不明です。

選任された7270)人を正教会では「七十門徒」と呼び、これも『使徒』に数えています。

また、エマオへ向かう道で甦りの主イエスが姿を現されました(ルカ2413以下)。このとき、主にお会いできた弟子たちも、ふたりが一緒でした。

初期の教会では、エルサレム会議の結果をシリアのアンティオキア教会に伝える使者として、バルナバとパウロを選び、ユダとシラスを添えて派遣します。ふたり一組のふた組です。非常に慎重な形です。

これには、ユダヤの長い伝統が生かされている、と考えられます。ユダヤでは、何事であれ、二人以上の証言がなければ、真実とは認められません。イエスの弟子の集団から派遣されるのは、キリストの甦りを証言するためです(使徒2321331)。証言であれば、二人以上であることが、不可欠になります。
教会は、派遣される者を常に二人以上とする伝統を作り上げてきました。

このほかにもテトスの派遣の記事(Ⅱコリント81623)もありますが、割愛します。

さて、テモテの派遣については、1テサロニケ315 (2,3a)にも同じような記述があり、同じ動詞(ペンプサイ)が用いられます。
「わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」。 (2,3a)
この手紙は、パウロの手紙の中でも最初に書かれたものであろう、と多くの学者が認めています。
「派遣」に用いられている言葉は、ペンポー、と言います。
ペンポーは、送る、遣わす、を表現する一般的用語。その類語、アポステロー。
アポステローには、職権を委任して、という意味が加わります。宣教師派遣もこの語。
名詞になってアポストロス、遠征隊、艦隊、使者、使節、使徒。
 パウロは、ローマ書1:1などで、使徒を自認していますが、あの12人の者たちとの権威の違いに憤慨しているように感じられます。使命をより正しく果たしているのは誰か、実体を見て欲しい、といっているように感じられます。

両教会への派遣を、パウロがどのように理解していたか、考えることができるでしょう。
一つは、何ら、職権に関わることのない友好的な訪問と見ていた。これは、パウロが教会の状況に関し、心配していたことを踏まえると、妥当性が薄いようです。
もう一つは、パウロは二つの言葉の区別を、余り意識していなかった、という考えです。
不思議なことを発見しました。アポステローは、福音書と使徒言行録では、用いられています。しかしパウロの手紙の中では、用例がごく僅かです。Ⅱテサロニケの一例を除くと、フィリピ416「物を贈る」、ローマ1524、Ⅰコリント166「あなた方に送ってもらう」、そしてⅡコリント8で「テトスを送る」。
確かに、パウロはペンポーに、アポステローの意味を持たせています。派遣の意味が強いと言えるでしょう。此処での「派遣」は、軽視して良いほどのものではありません。パウロは同じ意味で用いているようです。

 テモテを送り、フィリピ教会の様子を知って、力付けられたい、とパウロは希望しています。テモテは、使命を託され、派遣されています。フィリピ教会の様子を調べる、感じる、帰って、パウロに報告し、その結果パウロが力付けられる。
パウロはそれほどに、フィリピの反キリスト勢力の活動を恐れていました。教会の分裂を心配しました。ひとりの主を信じ、主と仰ぎ、従っていても、全く違う教会に成る恐れがあります。一生懸命、甦りのキリストを証してきたパウロにとって、これは許しがたい事でした。だからこそ、元気な教会の様子を知りたいのです。

パウロは、テモテのような、年若く、弟子にあたる者からも力を受けることが出来ます。
キリストの福音にかかわることなら、いつでも可能なことです。パウロは、教会が一つ心でいること、イエス・キリストをひとりの主と仰ぎ、従っていることを聞くとき、元気になります。

そして今、私たちも、テモテ同様、派遣された者なのです。
使徒という語は、使命を帯びて派遣された者を意味します。まもなく、礼拝を終わります。

クリスティアンの務めが終わった、と感じて帰って行くのなら、その礼拝はレベルの低いもの、と言わざるを得ません。さあ、それぞれの生活の場へ、派遣されて行くのだ。その場で、イエスこそ私の主キリストである、と証をするぞ、とお考え戴きたいのです。