2013年6月30日日曜日

星のように輝く

聖書]フィリピ21217
[讃美歌]507、208,412、
[交読詩編]143:1~6、

昨年430日、北海教区総会が開かれました。開会礼拝の説教は、フィリピ21416をテキストに、《夜空に星があるように》と題されました。「私たちは星を見上げて歩いている」という言葉で始まった説教は、大変ポエティックで、文学的。よく調べ、構成した説教でした。平易であり、解りやすかった。まず良い評価を与えられるでしょう。「星は自ら光るのではなく、大きな光を反射する」と語り「神の光を反射する光の子として歩もう」と結ばれました。

 こうして他の牧師の説教を、その結語までご紹介すると、この後、私が話すことはないのではないか、と言いたくなります。

「私たち」は、この北海教区の一人びとりです。道内の大部分は、程度は違いますが、雪と氷の世界を経験することに違いはありません。私はまだ、ふた冬の経験でしかありませんが、夜空の星を見上げる経験はほとんどありません。すべる、転ぶ、倒れることが怖い、星よりも足元を大事に考えてきました。それが習慣になるのでしょうか。夏であっても、夜空を仰ぎ見ようとはしません。野に咲く花に道端に咲く花に、目を向けがちです。
また「星が降るように輝く北海道」と聞きますが、札幌もこの辺では、全く星は見えない。驚きました。考えました。札幌の街路灯は、覆いがついていない構造のため、空が明るくなり、見えないのでしょう。大気汚染とは違う型の環境問題です。しかし、道北大雪山系・黒岳は、星が降る様に見える、と聞きました。(層雲峡温泉)

観念的に夜空の星を考えていることが多く、現実の夜空の星を見ていない。

地上世界が、明るいと夜空の星は見えません。パウロの時代、そうしたことは、ほとんど起きなかったでしょう。ローマ帝国の軍団兵が、ガリヤ、ブリトゥン、ヒスパニア、ゲルマニア、アシア、エジプトなどを攻めた時、略奪、放火を伴うのが常でした。松明、炬火、篝火だけではありません。紀元64年、首都ローマが炎上した時も、周辺諸国を征服した時同様、地上は火の海となり、その光に、星はその輝きを失いました。これは、特例です。普通の時は、地上は暗黒に閉ざされ、夜空は輝く星でいっぱいになりました。夜道を急ぐ旅人は、星を見て方角をきめることが出来ました。

 現代では方角を決めるのは、ナビゲーション・システムです。人工衛星という名の眼には見えない星を使い、居場所を教えられ、方向、距離まで教えられます。

さて、このところで、パウロが語っていることの筋はなんでしょうか。聖書学者は、分かり易い箇所である、と言います。存外、難解に感じます。重要な言葉を辿ってみます。口語訳を使いました。

最初に語られているのは、私は、今あなた方と一緒にいない、と言うことです。パウロは、エフェソまたはローマの牢獄にいます。そこから、愛するフィリピの教会の人たちに語りかけます。

「いない今は、いっそう従順でいて、・・・自分の救いの達成に努めなさい」。

「その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」。

「すべてのことを、呟かず疑わないでしなさい」。

「それは曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである」。

『あなた方は、命のことばを堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』

『このようにして、私の血をそそぐことがあっても、私は喜ぼう・・・』

珠玉のような言葉がきらめいています。それこそ星のように、と言いたいほどです。

最初に、これを読んだのは、大学生の頃、と記憶します。正直に言えば、その意味は分かりませんでした。それでも、良い言葉だなあ、と感服しました。以来、繰り返し読みました。そのうちに、分からなくてはならないのに分かっていない、読むほどに混迷の度合いが増すことにいらだち、離れて行きました。7・8年に一度くらい学ぼうとしましたが、面倒でした。今回も、久振りです。やはり不明点があるままです。考えなければなりません。

先ず、最初に触れられたパウロの在・不在は、フィリピの信徒たちに大きな影響を与えたことでしょう。パウロは、彼が不在であっても、信徒たちが恐れおののきつつ、神の臨在の中にあることを望んでいます。自分が、なお崇敬されることを願うなら、それは個人崇拝になるでしょう。母教会の恩師は、辞任後は、その教会の信徒との個人的な関係は、出来るだけ避けるものです、と教えてくれました。慕ってくれる人が居る、というのは気持ちの良いものだ、と思います。私のように人柄が悪く、無能な者には、そうした心配はありません。

モーセは、申命記3124325で、決別の辞を語ります。私がいなくなれば、イスラエルはもっと悪くなるに違いない。そのとき、律法に対して従順であれ、と告げています。

パウロが求めるのも従順です。自分が居ても、居なくても従順でいなさい。これを、パウロ個人への従順と考えることが多いようです。私は、そうは考えたくありません。

パウロの言葉、パウロの教え、パウロの指導に対し従順であれ、であるなら、それは個人崇拝になります。パウロは、115以下の宣教の動機に関する考察では、福音が語られているなら、何よりだ、と書きました。

 

パウロは、福音の言葉に対して従順であれ、と語っているのです。それだけが、救いを達成するからです。自分の救い、これなども長く問題になった言葉です。自分が、救いを生み出すことが出来る、と言えば、これはユダヤ教、律法の行いによる完成、となります。

キリスト・イエスが、十字架によって私たちに与えてくださった、罪からの解放という福音に対し従順であれ。Ⅰコリント11825「十字架のキリストを宣べ伝える。」

「達成に努める」達成はカテルガゼスタイン、完璧な成就や結末を意味する

従って、「途中でやめるな、半端にするな。救いの業があなたの中で完全に、決定的に達成されるまで進み続けなさい」と言うことであろう。

フィリピの信徒たちは、不在者パウロの苦しみと一体化することを通して、自分たちの苦しみ、更にイエスの苦しみをも理解することが出来ます。またパウロの来訪と言う事実を通してキリストの来臨を前もって経験することができるのです。

信徒たちは、終わりの時にパウロが誇ることのできるものを与える故に、パウロにも影響を及ぼしています。・・・こうして彼らは、真の意味で互いにおいて満たされたのです。信徒と牧者の関係は、決して、一方通行なものではありません。相互に関わり、互いに影響を及ぼすものです。

さて、ここでは、「働き」を表す言葉が、多く用いられています。その一つ、16節では、「労苦したことも無駄ではなかったと」と語ります。いかなる恵みの教えも人を労苦から解き放つものではあり得ないのです。大地の恵みも、その収穫にいたるまでには、どれほど大きな働きが、また細心の配慮が必要でしょうか。

「私は他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」Ⅰコリント1510、働き人は謙虚です。

パウロは、此処でもこれまで同様、他のもの(使徒たち)と自分のことを比較します。そこから、突然、方向を転じて、神の恵みです、と語ります。

 私たちは、考えさせられます。私たちの論議は、たいていの場合、あれかこれか、に終始します。終わりの見えない、果てしない論争になります。そうした時、第三の道があることを、パウロは教えます。

「働きかけ」、と「実現に至らせる」は共にエネルゲインです。これは神の行為の意味であり、その故に効果的行為をさします。それは半端にされず、完全に成し遂げられます。

地上の光を繁栄して夜空は明るくなり、星の輝きは見えません。それと引き換えに地上の人の心は、いよいよ暗くなっているのではないでしょうか。パウロが、星のように輝け、と言う時、眼には見えない心の闇を、夜空と言ったのに違いありません。生きる方角をきめる星となりなさい、これがパウロの言うところです。自分の義を誇るのではなく、十字架によって罪赦されたことを感謝し、共に喜ぶ、これこそパウロの喜びです。

他者の恐怖、不安、苦しみの上に成り立つ喜びは、私たちが喜ぶべき喜びではありません。私たちが喜ぶべき喜びは、共に喜ぶ者がいる喜びです。キリストの十字架が人を生かしたように、私たちの命も、人を生かすために用いられることを、喜びたいと思います。神は今も働いており、特に教会という存在を保持し続けていることを通して働き続けています。現代の私たちもこの手紙により、同じ命令を受けているのです。