2013年6月16日日曜日

へりくだって考える

[聖  書]フィリピ2111
[讃 美 歌]507,280,474,78、
[交読詩編]14:1~7、

 このところで、パウロは教会内部の対立、分争を心配し、助言・勧告しています。
私たちが、この手紙の中から知ることのできる対立は、二種あります。

第一は32以下の、あの犬どもに関わるものです。ひどい呼び方ですが、それだけ厳しい対立であり、戦いだったのでしょう。
パウロがかつて属していた、ファリサイの仲間たちです。パウロを裏切り者として追及し続けます。個人にとどまらず、その活動、その結実である集団も狙いました。
彼らは、自分たちこそ真理を担う者である、と確信しています。

 第二は、42以下に見られます。エポディアとシンティケの仲違いです。かつては、パウロの働きを、力を合わせて助けてくれた。共に闘ってくれた人たちが、離れ離れになっている。このためにパウロは、フィリピの教会の指導者にも、この二人を支えてあげて欲しい、と語ります。「主に結ばれて、同じ思いになるように」支えることが求められます。

他の手紙の中からも知ることができます。

 ひとつは、ガラテヤ16以下に見られるものです。これは、「はかの福音に乗り換えようとしている」。これは、キリストの福音を覆そうとしているだけのものであり、決して別の福音があるわけではない、とも語ります。これは、信仰による救いを退け、律法の行いによる自分の義を語る者たちのようです。

 もう一つ、よく知られるものがあります。Ⅰコリント33以下に見られます。
「お互いの間に妬みや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」
そして4節で、その中身を明らかにします。
「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなた方は、ただの人に過ぎないではありませんか。」
 この分裂と対立は、真理問題によらず、主要な人物を頭領と仰ぐ勢力争いです。今日でも良く見られる分派・分争です。対立と抗争
これに対するパウロの指導は、明確です。パウロもアポロも、共に神のために力を合わせて働く者です。あなたがたは、神の畑であり、神の建物です。パウロもアポロも、神に委ねられて、この畑、建物のために働いているだけです。

 フィリピ、ガラテヤ、コリント、三教会で、内部に対立があることを観ました。
このほかにも多くの教会で起こっていたことでしょう。現代の教会を考えれば、内部の主導権争いが大きいものと考えられます。その場合でも、教会の争いはみっともない、と考える人たちですから、勢力争いが隠されて、真理問題であるかのように、表面を繕います。

 フィリピ教会内部の争いは、どうやら、お互いの間の感情的な対立、離反だったように感じられます。信仰内容の違いであれば、後の時代の改革派のように分離、独立ということになるでしょう。此処では、そのような動きは感じられません。むしろ、お互いの間の意思疎通が問題となっています。コリント教会やフィリピ教会は特にこの感情問題に注意が喚起させられています。


1節、    あなた方は、フィリピの教会の人たち。これは良し。
次は、キリストによる励まし。ティス パラクレーシス エン クリストー。異訳「キリストに在っての勧告」は、パウロがフィリピの人たちに与えたもの。その事に意味があるならば、ということになります。パウロがかつて為した勧告に意味があるなら、でしょうか。ティスは、言葉の意味を緩和する役割があります。「というようなもの」と訳します。

それに続くのは、愛の慰め。ティス パラムシオン アガペース。これも、信者相互のものとするよりも、パウロが与えた神の愛の言葉、決して人間相互の愛ではありません。

三番目は、霊による交わりです。ティス コイノーニア プニューマトス。御霊に与ること。御霊との交わり、御霊による信者相互の交わり、あるいは信者とパウロとの交わりの意味にも取れます。こうして、御子キリスト、父なる神、そして霊。三位一体の神を表現していることになります。

パウロは、心に溢れる思いを、多くの言葉に換えて、語ります。
あなた方が、神の愛によって作りかえられ、新しい生き方を進めているなら、他の人を思いやり、一つ思いとなって、私の喜びを満たしてくれるでしょう。

 何故、対立が生まれたのだろうか、パウロは考えています。
利己心、虚栄心、傲慢。要するに、自分だけが大事で、他の人のことには無関心。
「愛の反対語は何でしょうか」、憎しみ、嫌悪、拒絶、色々言いたくなります。
マザー・テレサは言います。「愛の対極の言葉は、無関心です。」
日本で、アジアで、アフリカで、世界中で、どれほど多くの人が、子どもたちが、誰にも面倒を見てもらえず、配慮されることもなく、孤独の中に放置されていることか。
 この世界の中で、自分の欲求が満たされ、満足している人たちがいます。幸せな人たちです。いろいろなレベルがあります。事情があります。充足し、満足できることは、大変幸せなことです。・・・そうです、この、私の幸せは、自分ひとりのためなのでしょうか。
分かち合うことは出来ないのでしょうか。

 他の人たち、自分とは違う人たちのことを考える。思いやる。配慮する。
自分のことだけを考える人は、どれほどたくさんの友人がいても、孤独になります。
他の人のために生きるなら、周囲に友人がいなくても、孤独ではありません。神が友です。
パウロは、ともに心を合わせ、力を合わせる生き方のために、へりくだることを語ります。

謙り、謙遜、これは日本社会の徳目のひとつに数えられています。古くから、傲慢でなく謙遜に、と教えられました。「目立とうは駄目、控えめに」。戦後、日本社会は、戦勝国である米国を受け入れ、すっかりアメリカナイズされました。競争社会・アメリカの人たちは、事毎に自分自身をアピールします。
変化した社会、人の心。そうでありながら、昔ながらの言葉、徳目は残りました。そこで言われるようになったのが、『謙遜の悪徳』という言葉です。美徳のはずであった、謙遜を、現代社会の中で実行すると、それが悪徳に変化している、ということのようです。
心にもないへりくだりを口にする。
パウロにとって謙遜とは、何を意味するのでしょうか。
父・子・聖霊の神から来る励まし、慰め、交わりが、あなた方の中にあるなら、ひとつ思いになり、私の喜びを満たして欲しい、と願っています。自分の利益、自分が称賛されることを求めず、他の者を自分より優れた者と考えるように、と勧めます。ここにパウロの謙遜があります。それぞれ、自分に関する真実を認めましょうよ、ということです。

 パウロは、当時のユダヤで、一流の人格です。血筋からは、ベニヤミン族。これはイスラエル初代の王サウルの同族です。ユダヤ社会で誰からも愛され、尊敬されていた律法学者ガマリエルの弟子でした。その上彼は、生まれながらに、ローマ帝国の市民権を持っていました。ユダヤ人もローマ人も、彼には手出しすることを躊躇するほどの地位、身分にありました。多くの人の上に立つべき者として認められていました。

 そのパウロが、自分自身をどのように表現したか。Ⅰテモテ115
『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私はその罪人の中で最たるものです。(新共同訳)

キリスト・イエス罪人(つみびと)を救(すく)はん爲(ため)に世()に來(きた)り給(たま)へり』とは、信(しん)ずべく正(ただ)しく受()くべき言(ことば)なり、其()の罪人(つみびと)の中(なか)にて我(われ)は首(かしら)なり。(文語訳)

「罪人のかしらなり」、これこそパウロの自己認識、自己表現です。罪に悩みつつ、罪の赦しを確信しています。

謙遜である、とは真の自分自身の姿を認めることです。赦された罪人であることを認めましょう。そのとき、私たちは、互いに赦された罪人として、生きることが出来ます。