2013年6月23日日曜日

キリストの讃歌

[ 聖書]フィリピ2111
[讃美歌]507,205,475、
[交読詩編]13313

昨日、カンボジアで開催された会議で、富士山が、世界文化遺産に決定しました。正式名称は《富士山―信仰の対象と芸術の源泉》。景勝地「三保の松原」を含みます。大変嬉しいことです。これを機会に、もっとその素晴らしさを知り、大事にして欲しい、と感じます。頂き物ですが、写真集があります。一冊は、娘が、「お父さんの好きな富士のすべてが分かるから」と言って、贈ってくれました。大阪に居て、富士を見られないのをあわれんだかもしれません。多くの芸術作品が掲載され、「芸術の源泉」であることが分かります。

もう一冊は、駿河療養所内神山教会の役員をしておられた伊藤秋夫さんの撮影した写真集です。こつこつと撮りためた作品です。療養所の方は、どなたも富士を特愛している、と感じます。宇佐美伸先生を始め、多くの方が写真を撮っておられました。何故か?

宇佐美先生が、三保の松原からの富士を写した作品は、讃美歌のしおりに使っています。先生は、ある日こんなことをおっしゃいました。「富士は、誰に対しても同じ顔を向けるんですよ」と。誤解に基づく偏見と差別に苦しんでこられた方の、深い言葉です。心に沁みました。此処は、富士山から遠くの地です。写真集をご覧いただければ幸いです。

 

さて、本日は、前回《へりくだり》の続きになります。へりくだって考えなさい。教会内で、互いに反目し、対立し、分裂しようとするフィリピの教会に対する勧告です。対立、分裂の起因を利己心や虚栄心と捉えました。そして、キリストの福音に相応しい教会を形成するためには、互いにへりくだることこそ、重要である、と勧めます。

 

そのへりくだり、謙遜の根拠を、キリスト・イエスに求めるのが、本日の聖句です。

この部分、611節は、当時の教会における『キリスト讃歌』の引用、と考えられています。これによって、勧告の根拠が深められます。手紙の中には、ずいぶん当時の信仰告白やキリスト賛歌の引用が見られます。

 

この記述の形式は、讃歌です。この見解は、エルンスト・ローマイヤーの論文(1927年)以来、広く受け入れられてきました。

キリスト論的讃美・告白は、パウロ文書において、決して珍しいものではありません。

異邦人のキリスト教会の礼拝(Ⅰコリント86、Ⅱコリント89、コロサイ11520

で使われていた共通の資料かもしれません。パウロが自分で作ったのではなく、他から引用しているとしても、「十字架の死に至るまで」(8節)という句はパウロ自身が付け加えた可能性が高い、と考えられます。

 

8節、「謙遜・へりくだり」は、タペイノオー、低くする、平らにする、貧しくする、謙遜にする、心を低くする、という意味です。十字架のキリストの姿を、謙遜の典型と、捉えています。ある学者は、こんなことを書いています。

 

「キリストは、報われるという約束なしに自身をむなしくし、仕え、死したことが明らかになる。キリストの行為に関する異常な事実は、十字架においてはっきりと未来が閉じられたことである。

キリストは、勝利の見込みなしに、我々のために働いてくださった。これこそが神が称賛し、支持する行いである。利益を求めず、報われることを願わず、自己を否定して死に至るまで他人のために仕えることこそが。」(クラドック、p82)

 

 私たちに、明らかになることは、パウロは利己心に満ちた眼、尊大な精神、お世辞を求める耳、何も語らない口、他人を受け入れる余地の乏しい心、自分にのみ仕える手は、キリストのからだに相応しくないと見なしていた、ということです。

 パウロは、ひとり一人が自分に対して責任を持ち、それぞれの重荷を担う(ガラテヤ645)という意味での個人主義に反対していたのではありません。

 自分のことを考える態度が、他人の重荷を担うことから遠ざかること、福音における協力関係を拒絶すること、喜びを共にしないこと、苦しみの中にいる人に無関心であること、互いに手足となるという生活態度に対して冷淡であることを意味するのであれば、そのような個人主義は共同体にとって有害であり、徹底的に他人に仕える者であられたイエスを讃美し、これについて語る福音と矛盾します。(クラドック、p76

 

パウロは、キリストこそ、十字架の死に至るまで従順であり、徹底的に謙遜であられた、と語ります。だから、文語訳「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」となるのでしょう。

 

 見せ掛けだけの謙遜は、比類のない傲慢である、と言わざるを得ません。

キリスト讃歌は、実にキリストの謙卑を称えるものです。

キリストは、ご自身が神の御子であることを放棄して、罪人の低さにまで下ってこられました。罪を他にして、全く一人の人間でした。ヘブライ415が語ります。

  「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練にあわれたのです。」p405

 

こうした謙遜は、キリストにおいて、突然顕われたことではありません。幾たびか、顕われています。顕著な例を挙げましょう。旧約聖書には神が、人間と契約を結ばれることが記されています。この契約を考えてください。族長ノアと結ばれる虹の契約、預言者エレミヤの新しい契約、いろいろ挙げることができます。

いずれも神が人と結ばれたものです。そのためには大事な条件があります。契約の前提条件、というべきでしょう。それは、対等な人格関係、ということです。私たちの社会で認められる契約を考えてみてください。人間関係には上下がつき物でした。そこでは、命令や、言い渡しなどが普通でした。社会の中で、対等な関係を構築するようになって、契約が成立するようになりました。対等な人格関係が、契約の前提条件です。

そこで問題です。創造主なる神と、その被造物である人間とは対等でしょうか。

 

16日午後の《み言葉を学ぶ会》でお話したことを繰り返しましょう。

契約、その語源はヘブル、アッシリアなどでは、束縛、拘束です。

通常、契約は対等な人格の間で結ばれます。双務契約、片務契約。

当事者である二者が合意の上で、ある約束を守るために互いに束縛される関係に入ることが、契約です。神と、その被造物である人間とは、対等な人格を有する、と言えるでしょうか。造物主と被造物とは、決して対等ではありません。被造物は、造物主の高みに昇ることは出来ません。主が、被造世界の低みにまで降下することはできます。

契約は、神が人間を救済する計画のもとで、欠くことのできない手段となりました。聖書に現れる契約は、神が人間に恵を与えるためにご自分を拘束されることです。ご自分を拘束してまで人間に恵を与えようとされます。ここに福音があります。

 

キリストの謙遜は、単なる美徳ではありません。福音そのものなのです。

文語訳は「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。すなわち彼は神の形にて居たまいしが、神と等しくあることを固く保たんとは思わず、かえつて己をむなしうし僕の形をとりて人のごとくなれり。」

 

キリストの謙遜は、ご自分が本来持っておられる権利、権限すら放棄するものでした。

前回、私たちは、自分の本当の姿を、そのままに認めることが謙遜である、と考えました。

パウロは、キリスト讃歌を引用して、それを乗り越えることを語っています。

教会をひとつの教会にするものは、人間的な力や思いではなく、キリストにある、という思いです。エン トー クリストー、かつてはキリストにあって、と訳されました。そのほとんどを、新共同訳は、キリストに結ばれて、と訳すようになりました。動的な関係が理解されるでしょう。命が流れ込んでいる、と言えます。

 

私たちが、キリストに結ばれて、キリストのからだである教会を形成しようとするなら、キリストの謙遜を学び、倣うことが必要です。自分の当然と考えられる権利、権限も主張しない、保持しようとしない、と言うことです。私は、この歳になって、まだまだと感じます。同じ顔を向けることが出来ていません。自分を守る意識が強いのでしょう。

キリスト教会には、優秀な人、有能な人、立派な経歴の人が多くおられます。他の誰にも負けない、強い人も、負けず嫌いも居ます。それは認められます。しかし、それを利己心、虚栄、野心にしてはなりません。

キリストの教会が、福音信仰によって一つになるためには、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、互いに仕えあう者となるのです。