2013年6月9日日曜日

共に戦う者


[聖書]フィリピ12130
[讃美歌]507,206,412、
[交読詩編]67:2~6、

前回は、パウロの板ばさみ状態について考えました。かつて、忠君愛国の思想が幅を利かせていた時代がありました。教育勅語と戦陣訓の頃です。国のため、その命差し出しなさい、と教えます。同時に親には孝養を尽くしなさい、と言います。命ながらえることが求められます。国に中であることが、親に対する孝である、と単純化しました。教える側はそう語ることが出来ても指導される側では、大変大きな相克があったに違いありません。政治が板ばさみ状態を生み出しました。

板ばさみも、生きるか死ぬか、と言ってしまうと、シェイクスピアーの『ハムレット』の有名なせりふを思い出します。

To beor not to bethat is the question

「あるべきか、あるべきでないか、問題はそれだ。」

生きるべきか、生きるにあらざるか、それが問題だ。生きるか死ぬか、それを悩むのさ。

坪内逍遥、福田恒存は、Be  を存在よりも生存の意味にとって翻訳しました。

最近は、存在の意味に近く訳す傾向が強いようです。シェイクスピアーの意図はどこにあったのでしょうか。続くセリフ、舞台の様子は、どうやら、どのように生きるか、という意味、と考えられます。

 

ある意味でこれは「個」の確立と言えるでしょう。

 

サッカーの日本代表チームが、W杯ブラジル大会出場を決めました。アジア地区のライバル、オーストラリアと対戦。1点を追いかけ、アディショナルタイム、本田選手の蹴ったボールは、相手チームのハンドの反則。ペナルティエリア内のため、PKが与えられました。彼はど真ん中へ覚悟の一蹴。見事決まりました。

監督、選手、スタッフ全体への記者会見での、PKをきめた本田圭祐選手の発言が注目されています。同席している年長の先輩選手の名前を挙げて、言いました。

『今のままならアジアではよいけれど、世界レベルのプレーヤー、チームになるには、それぞれの長所をもっとレベルアップしなければならない。チームワークは我々皆が持っているもの。これからは、もっと個を確立して、世界レベルにならなければならない。』

 

これは、ブラジルW杯で強豪に伍して戦うチーム作りへの提言だと思います。個々人の技術を確立する、そして自信を持ってその役割を果たすことを求めたものでしょう。最終の場面で、PKをもぎ取り、ボールを手にキックの場に歩み寄る本田選手。

「俺が、此処で決めるんだ。」という決意を感じた方々も多かったのではないでしょうか。

ぶれることのない、個の確立を見たように感じました。共に闘うために、必要なことです。

 

 逆に考えて欲しい。共に闘うことができない、とすれば何があるか。自分のほうが偉いんだぞ、と考え、それを証明しようとしたら、てんでんばらばらになる。ひとつ心にはなれない。他の人は、自分を称賛するための存在、道具。

自分を、ではなく、神様を讃美する時、心はひとつになれる。これが、生まれ出た教会。

自分はあれも出来る、これも出来る。あいつは、お前は何も出来ないだろう。ダメな奴。

学歴社会、能力社会、技術万能社会、資格社会、

 

クリスチャンである、と言い、それを誇る人。確かに、立派なクリスチャンがたくさんおられます。社会的にも地位の高い人が少なくありません。経済的にも、資産を持ち、余裕のある生活をしている方も多くおられます。

しかし、それらと愛され、尊敬されることとが結びつかないのは何故でしょうか。

クリスチャンは敬して遠避けられれてはいないでしょうか。敬遠される。

 

あれこれと自分自身を自慢する人、有能な方であることは分かります。

これでは、一緒に、ひとつ心で祈り、闘うことは出来ません。

かみそりと一緒にいるようなものです。こちらの心が休まりません。

出来る人の傍に居ると、お前は何も成果を上げていないじゃないか、と責められるように感じるのは、当方の無能さの故でしょうか。頭悪いからなア

かみそりのように鋭利なものは、むき出しのまま他のものと一緒にすることはしません。

必ず、他のものを傷つけるからです。そのかみそりの意志には関係がありません。たとえ善意の塊であっても。むしろ善意であればあるほど怖い、と言えるでしょう。

 

27節以下は、「キリストの福音に相応しく生活しなさい」という勧告です。

さまざまな時に「らしさ」とか、「相応しさ」が問題になります。大人らしく、子どもに相応しい服装、年齢、職業、地位、身分、性別その他、それぞれに相応しさがあるように言われます。しかし、本当に相応しい、とはどのようなものでしょうか。

若い日に、教えられたことがあります。福音に相応しい食事の仕方がある。あるいは、お店の暖簾をくぐるときは、財布に手を置いてお祈りしてから決めなさい。

他の人に行き渡っているかどうか、確認してから箸を取ること。無駄遣いをしないこと。

50年以上経過すると、さまざまな変化があります。形は変化しても、どこかで守っています。何事であれ、喜びと感謝にあふれた態度、姿勢が、福音に相応しいものだ、と感じています。

 

「ひとつの霊により、心を合わせて福音のために共に戦う。」

パウロは、フィリピの教会の人たちが、この戦いにおいて現在進行形であると語ります。善意と妬みという二つの動機があれば、決して心はひとつではありません。読み進むとわかりますが、愛するフィリピの教会ですが、決して一枚岩ではありません。そのような状態を、パウロは大変心配しています。

 

福音の信仰のための戦い、此処にも二つの姿が浮かび上がってきます。ひとつは福音信仰を守る戦いです。キリストの十字架と甦りによる救いの福音を伝えたのはパウロです。パウロがいない今、あの律法主義者が入ってきて、律法の行いこそイスラエルの救いである、と教えます。彼らに対抗して闘いましょう、と勧めます。

 

他方、福音を伝えて行く戦いがあります。この時代、それは地道に語り伝えることでした。福井二郎、という牧師さんがおられました。戦前、中国人伝道に励まれました。敗戦により帰国され奄美大島?で伝道。その後、池袋西教会の牧師をされました。その頃,神学校の卒業クラスの特別授業にこられました。

「任地へ着いたら、同じ時間に同じことをするとよろしい。村の人たちが、行動に関心・疑問を持ち、質問してくれるから、話せるようになりますよ。」

先生は、大陸でも、奄美でも毎日、同じ時間に、同じコースで杖を引かれたそうです。

これが、福井先生の、福音のための戦いでした。

 

共に戦う者は『戦友』です。忘れがたいことがあります。

晩年の父との会話です。その日、父は奥の部屋のいつもの席ではなく、隣の部屋、茶の間で寛いでいました。

「行人君、君が信じているのだから、私もキリスト教になってよい、と思ったけど、教会は、靖国反対なんだろう。僕は、戦友と靖国で会おう、と約束したんだよ。」

驚きました。改宗することを考えていたことに。

すでに死んだ戦友との約束を、今でも大事に守ろうとしていることに。

私たちは、パウロによってこの深い絆に招かれ、結ばれているのです。

 

このところは、最後に29節が記されます。

「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」

パウロは、今ローマ帝国の牢獄に捕らわれています。まさにキリストのための苦しみです。彼は、それをなんでもないことのようには言いません。率直に苦しみである、と認めます。

ただ、これもまた、神の恵みである、といいます。

苦難は、それに耐える力を持っている人に与えられます。試みは、それを乗り越える力を有する人が受けることが出来ます。試みに遭い、苦しむ時、自らに言いましょう。

お前は、それに耐える力を与えられたのだよ。その恵みに相応しい者とされたのだよ。

さあ感謝しよう。讃美しよう、と。