2013年6月2日日曜日

生きるとはキリスト


[聖書]フィリピ12130
[讃美歌]讃美歌21;507,492,521
[交読詩編]21:1~11、


これまでの説教者としての生活で、私は何回もこのフィリピの信徒への手紙を取り上げてきました。

それ以外にも通読しています。聖書を読むようになったのが1958年を過ぎた頃でしょう。それだけでも55年、神学校を出てからでも45年。注解書もずいぶん購入しました。全部を読んで研究したわけではありません。それでも、必要と思われる所には目を通しました。前の説教や聖書研究の原稿には目を通しませんでした。

今回、説教を始めて、これまでとは違うものが、この中にあることを感じています。

ピリピ書、と言えば、獄中書簡、喜びの手紙、感謝の書、で良かった。迷うことなく、その線で説教することが出来た。ところが今回は、そうは行かない。伝統的な緒論に変わりはないが、それだけでは済まされないものが見えてくるのです。

 

 創世記でも、感じたことです。すでに書物などでも指摘されていた問題を、自分では感じていなかった、考えていなかったのです。聖書や注解書の読み方が浅かったのでしょう。

あるいは理解度が浅く、理解していなかったのかもしれません。頭が悪い、と言えば簡単でありながら正確な分析になるでしょう。

 

 もっと早くに気付いているべきだったのでしょう。獄中書簡ということと、喜び・感謝の手紙ということの間には、本来直接的には結びつかないものが存在しているのではないでしょうか。若い頃、何も気付かなかったわけではありません。簡単に言えば、獄にある、監禁されている、パウロにとって不都合な状況からは,喜び・感謝という感情は、直接的には生まれてきません。人間にとって、その生と死は解決のない問題かもしれません。

高校時代、人間の生と死に対する問題解決を課題とする文学、と言う考えを持ちました。

その頃の国文教師と話をすればよかった、と振り返ります。

 

前回は、《動機は愛か欲か》と題してお話しました。愛を動機とすることが大事、とパウロは語っている、と思っていました。ところが、二つのどちらであっても構わない、キリストが伝えられているのだから、と言うのがパウロの考えでした。二つのどちらかではなくて、第三の考えがある、と言っています。 結局パウロは、この世界のためには、今、キリストが伝えられることが、何よりも大切だ、と言います。

 

18節の喜びは、すでに起こった事柄を思い起こしてそうしているのです。19節の喜びは、将来に向けて1926節に述べる未だ確定していない出来事を予想しながら語られている、と考えられます。

パウロは過去の出来事を喜ぶだけでなく、将来の出来事をも喜ぶことができるのです。そして、キリストが告げ知らされるなら、過去、現在、将来のいつであっても喜ぶでしょう、と語っています。

 

1923節は、監禁が、パウロに及ぼす影響について語る。

2226節は、監禁がフィリピ教会に及ぼす影響について語る。

2223節は、両方にかかっている。

 

この箇所は、なかなか理解が困難な箇所です。文意をたどり難いとも言われます。

確信と不安、決意と優柔不断、死への願望と生への願望が入り混じっていることが読みとらるでしょう。パウロは激しい精神的な矛盾にさいなまれています。

パウロは外的にも、内的・精神的にも板ばさみの状況に置かれています。

23節、『私は、板挟みの状態です』。口語訳も「板ばさみになっている」となっています。英語聖書はいろいろに訳しています(和訳文で失礼)。

『私は二つの方向に引き裂かれている』NEB  New English Version 1970

  ケンブリッジ、オクスフォード両大学を中心に解かり易く,格調ある英文を求める。

私も買い求めて、時々使います。解かり易く、綺麗な感じです。

『私は両側から捕まえられている』。TEV  Today’s English Version 1976

good news bible、新時代の訳語

 

その他の英訳聖書  

KJVKing James Version)ジェームス王欽定訳1611

 NKJVNew king James Version)改定欽定訳1982

 RSVRevised Standard Version)改定標準訳1952

 NRSV New Revised Standard Version 1990,新旧両教会用

 NJBNew Jerusalem Bible)カトリック訳・エルサレム聖書、1966年,改定1985年、

 

 

この部分は、パウロの手紙の中でもかなり難渋なもの。何を、語ろうとしているのだろうか。

パウロの主な主張は、20節、私の身によって、その生死にかかわらず、キリストが崇められること。それ以外のことではありません。それに続いて21節は、多くの翻訳は、「というのは、なぜなら」で始めます。英語ではforに相当するガルを訳したものです。新共同訳は、訳していません。不要な一語と判断したのでしょうか。新しい翻訳理論に基づいている、と感じます。「単語の変換ではない。文章全体が意味する所を訳出する。」

 

19節「というのは、あなた方の祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことが私の救いになると知っているからです。」

21節、「(なぜなら)わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

 

青年の頃、これを読み、心惹かれるものを感じました。しかし、此処には不明確、不可解な感じも残ります。すっきりしない、ものがある。今、読んでも同じです。確かに心が惹かれるけれど、分からない、説明できない

パウロは、常にキリストのものです。

「生きていても死んでいても」(ローマ148)、

「目覚めていても眠っていても」(Ⅰテサロニケ510)、

 

生きるとは、キリストを生きること。21節、ト ゼーン クリストス(補エスティン。)

パウロにとって生はキリストのためである、という意味か、または、パウロにおいてはキリストが彼の中に生きておられる、彼はキリストとの密接な結合関係に生きている、という意味でしょう。どちらの考えも、パウロ自身の言葉に基づきます。

 

ガラテヤ220、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。」

Ⅱコリント41016515、「そのひとりの方はすべての方のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 

死ぬことは利益なのです。迫害と殉教の時代にあっては、死ぬことは、勝利、と言いたいことでしょう。そこを、あえて利益といいます。

死は、屈辱と苦しみに別れを告げ、主の栄光に与るときでした。

キリストにある死は、キリストの甦りに与る勝利の時です。

 

「死は利益である」という言葉は、何を示すのでしょうか。この世を去って、キリストと共にいることです。この喜びを得ることを、一方では切望しています。

生きるとはキリスト、22節の、肉において生き続け、実り多い働きを指している、と考えます。更に24節の「あなた方のための必要を満たす」ことができるのも、パウロにとっては利益です。そして25節、「喜びをもたらすよう」あなた方一同と共にいることになる。

 

ヨハネ黙示録18、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである。』」

ギリシャ語では、アルファベットの最初が、アルファで、最後がオメガです。

古くは、この箇所を『始めであり、終わりである』と訳していました。

おおよそすべての事柄の第一原因であり、そのきっかけであり、その収め所である、ということです。

 

どちらを選べばよいのか分からない、という悩み。これは、パウロがローマ書7章で、丁寧に論述していることです。

ローマ715、「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・19節、わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

 

 

生きるとは、キリストを生きること

パウロは自分の生と死を考えました。どちらを選ぶべきか、悩みます。とはいうものの、彼にとっては、楽しい、そして喜びへの道でした。

そして自分にとって利益にならないことでも、教会の人々の信仰を深め、喜びをもたらすことを選び取るのです(25節)。これこそキリストを生きることです。

 

板ばさみになったとき、パウロは自分の利得ではなく、キリストが伝えられること、教会の信仰の喜びを選び取ります。あれかこれかではありません。あれもこれも、でもありません。いつでも人々が、キリストに結びつくことを求めます。そして喜びます。