2013年7月28日日曜日

キリストゆえの逆転

[聖書]フィリピ3111
[讃美歌]419,149,518、
[交読詩編]71:14~19、

本日は、先週、お話しするはずだった「肉」のことから始めます。
「あの犬どもに注意しなさい」と切り出した文章。読み進めると、それは、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」であることが分かります。そして、彼らこそ「肉に頼る者」である、と言っています。ずいぶん厳しく、ひどい言葉だ、とも感じられます。パウロ自身、ユダヤの宗教を熱心に信じ、その戒律を熱心に守るファリサイ派の一人だった、ことを思えばなおさらです。天に唾するようなものであり、自分自身を嘲るようなものではないでしょうか。また自分の青春時代の全てを否定しても大丈夫なのか、と心配になります。

このところをよく読むと、確かにユダヤ人、割礼を持つ者たちを警戒しなさい、と言います。彼らは、肉に頼る者たちだからです。この肉とは何でしょうか。
聖書の「肉」サルクス、おもにヘブル的な意味に用いられる。
    人体または動物体の肉の部分、すなわち皮や骨に対する肉をいう。サルクス カイ ハイマ(肉と血)生まれながらの人間、自然のままの人間、人間性、人間存在を表すヘブル的迂言法
    肉体、人体を構成する実質、有形の要素、身体、からだ、;すなわち人間から例と精神を除いた物質的部分。この意味のサルクスはソーマの意味に、大体等しい。
    人間、人類、特にそのもろさや肉的性質に言及せず、単に「人間」と言う代わりに「肉」でこれらを表す場合
    自然的起源、血のつながり、血縁関係、肉親、血統、
    肉なるもの、肉的存在、;肉的存在としての人間の本政情有する肉的弱さ、もろさ、無力さ、不完全さ、はかなさとうに言及する語。
    倫理的意味における肉。信仰者のあるべき状態においては霊によって支配され服従させられているべきものが、人間の人格全体を支配しているものとしての肉、肉性、人間の官能に支配されやすくまた罪の中へと駆り立てようとする性質。  

此処では上より恵みにより与えられるものに対し、人間の側での有形の業績、律法の行為、人間の側での努力・功績・価値に言及することが、意味されています。フィリピ334
キリストの十字架以外に、人間の力によって何かを加えることで救いが完成する、と考えるようなことです。これが「肉を頼りとする」ことの意味です。

多くの人は、神に委ねることが、無力の印であり、勇気のないことだ、と考えます。
そして、何とかして、自分の力の徴、勇気を印象付けることをしよう、と努めます。
自分の力を誇り、弱くないこと、強いことを証ししようとするのです。無力で、弱くて、臆病であって悪いのでしょうか。恥ずべきことなのでしょうか。確かに、これでは、誰からも賞賛、称揚されることはないでしょう。
有能で、強くて、特別な勇気を示すと、それが戦時であれば特別な称揚の対象となります。
勲章が与えられ、階級が上げられ、広く告知されます。
安倍総理の愛国心、戦力による防衛、自衛隊の海外派遣など一連の構想は、こうした賞賛の機会を広げる役割を果たします。自衛官が正装した時、その左胸に、沢山の勲章が、その略章が飾られています。最初の頃、旧軍隊を経験した人が入隊し、何もない胸が寂しい、と言っていたものです。
自衛隊で、それほど多くの勇気と能力が発揮された特別なことがあった、とは聞いていません。災害救助活動でしょうか。海外派遣では、保険に加入する、ということも聞いています。支払いが、多数発生した、とも聞いていません。組織は組織を守るために行動する、と聞きました。
産官軍複合体は、誰のために存在するのでしょうか。誰を守るのでしょうか。
北朝鮮軍は、金王朝三代という国体を守るために組織されています。忠誠の誓約。

使徒言行録241416は、大祭司アナニアの告発に対して、総督フェリクスの前でパウロが行った弁論の一部です。割礼を受け、律法を守る者たちへの気持ちが少し分かります。

14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、
15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。
16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」

此処には、二つの重要なことが、語られています。
第一は、律法、予言の示すことをことごとく信じていることです。すでに、イエス・キリストを信じる者となっているパウロですが、同時にひとりのユダヤ人として、かつて学び、実行してきた教えを、廃棄することはしていない、と語ります。しかし、新しく与えられた信仰は、律法の行いによって、自分の救いを成就できるとは考えていません。
フィリピ39私には、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」

第二は、自分たちの正しさや、正しくないとの判断によらず、全ての人が、主イエスの甦りに与るようになる、と信じていることです。
 此処で正しいと言う言葉は、ディカイオスが用いられます。これは、神の義しさの標準に合致していることを示します。神の眼から見て正しい。従って絶対的な意味ではディカイオスなのは神(ヨハネ1725)とキリスト(1ヨハネ21)だけであるが、相対的な意味で人についても(マタイ119、同101、行伝1022)使われることがある。しかし厳密な意味においてはディカイオスな人は一人もいない(ロマ310)のが事実で、ただキリストによってのみ人は義なる者として生きることが出来る(ロマ117)。

パウロは、ユダヤ人の生き方を嘲り、罵ろうとは少しも考えてはいないようです。自分自身、全く彼らと同じ生き方をしている、と語ります。57節にその内容が記されます。
割礼は、掟に従い八日目に受けている。
イスラエル十二部族の残りの一部族ベニヤミン族の出身。
ヘブライ人の中のヘブライ人、と誇ります。
律法に関してはファリサイ派の一人として研鑽を積み、その名を知られている。当時、著名な律法の教師ガマリエルの弟子としてもその名を知られていました。
これらのことは、パウロにとって決してくだらないことではありません。しかし、これらは、彼に義をもたらすものではありません。いまや、十字架と甦りの主を知り、与えられる義、救いの恵みを知った者には、無用のものとなりました。
教会が律法による自分の義を求めるようになるなら、計り知れない損失を受けざるを得ないのです。パウロは、信仰による神からの義を受ける者として、それには何ものも付け加えようとは考えていません。パウロが求めるものは、10節が示します。

10節、スンモルフィゾー、・・・と同じ形、形において等しくする、フィリピ310では、キリストと同じ経験をすること。「彼の死と同じ形を取る」、パウロに見られる神秘的なキリスト体験を言っている可能性があります。

パウロの信仰は復活に始まり、復活に終わります。復活のイエスを経験したことが、彼の信仰の土台であり、かなめ石です。パウロは、言行録236で、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、私は裁判にかけられているのです。」と語ります。母の胎内にいるときから、となるでしょう。両親も敬虔なファリサイ派ユダヤ教徒であった,という事でしょう。彼はそれに、一層磨きをかけました。

パウロの回心の経過は、言行録9章です。彼は、死んで、葬られたはずの主イエスと出会います。この結果、迫害する者から、宣べ伝える者へと方向転換します。伝道者パウロの出発点は、主イエスの復活です。終着点も「死者の中からの復活」となりました(11節)。
この復活の主との出会いは、多くの人に大変化をもたらしました。
前回ご紹介した水野源三さんの詩をもう一つ、『キリストを知るためだと分かりました』
病に倒れたその時には
涙流して悲しんだが
霊の病いやしたもう
キリストを知るためだと分かり
喜びと感謝に変わりました

友にそむかれたその時には
夜も眠れずに悩んだが
とわに変わらない友なる
キリストを知るためだと分かり
喜びと感謝に変わりました

過ちを犯したその時には
心をみだしくやんだが
すべてをばつぐないたもう
キリストを知るためだと分かり
喜びと感謝に変わりました

甦りの主イエスは、背を向けている私たちの前の方に廻り込んで来て、会って下さろうとしてくださっています。怖くはありません。固く閉じている眼を開けましょう。お目にかかることが出来ます。感謝して祈りましょう。