2013年8月4日日曜日

我らの国籍は天にあり

[聖書]フィリピ31241
[讃美歌]425,18,461、
[交読詩編]57:2~12、
 
311でパウロは、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と語りました。
到達していないので、それを目指して走ることになります。
31214で、パウロは、走る競技者となります。
それは彼の、信仰によって義が与えられる、との主張と反する、という疑問が湧きます。パウロの考えでは、矛盾しません。クラドックは書いています。
「パウロにとって、信仰は走ることであり、格闘することであり、競うことであり、戦うことであり、キリストの日まで終わることがない。しかしその努力は功績を立てるためではなく、むしろ功績を立てようとする願いを全て捨て去った人間の努力である。」

この競技も、勝者には賞が与えられます。パウロが求めるのは、どのような賞でしょうか。パウロは、それが何かということを書いてくれませんでした。私たちは、推測するしかありません。功績を誇ることもないところで何が賞になるのか。
私にとっては、これは、罪赦され、神の子とされるということではないか、と考えます。
そのためには、イエスの十字架に何かを付け加えることをしない、という戦いが必要です。
これが、意外と難しいのです。自分の安心のために付け加えたくなるのです。君のためにイエス様が、充分に支払いをしてくださった、と言われても、何かしないと安心できない。

真理全体を、一人の人間の経験や、知識、思想から引き出し、纏め上げることは、ほとんど困難でしょう。それがパウロの言葉であっても、その考えによってキリスト信仰の全体を構築できる、とは考えないほうが良い、と感じられます。

法廷を指導し、審理を進める判事にとって、大事なことは「何が真実であるかを見極めることです」。一人の考え、判断では危険がある、ということで合議がなされます。首席、右陪席、左陪席、三人によって審理は進められます。最高裁判所は、憲法判断にかかわる場合、15人の判事全体の合議を行います。判決に反対の場合、その判事は自分の名前を書き残すことを求めることが出来ます。更に「反対意見」を書いて判決文とともに残すことも出来ます。専門の訓練を受けた、優れた人たちにしても、間違えることがあります。

同時に、責任ある指導者は、事柄をきちんとした筋道に立って語り、会衆を定められた方向へ導くものです。いつの時代でも、教会は、そのような責務を適切と信じる教師に委ねてきました。それでもトラブルは起きます。およそ20年ほど講壇を委ねられ、共に礼拝を守ってきた一人の牧師が、教会から辞任を要求されました。事情は知りませんが、これは大変不幸なことです。牧師にとってはもちろん、その教会にとっても不幸です。
私のよく知るある教会も、かつて止むを得ない事情の下、その牧師の辞任を要求しました。そうして新しい牧師を招き、建て直しに成功しました。しかし、あの教会は、牧師を追い出した「曰く付」だ、と言われ続けました。
この教会でも、そのことは、任職式、あるいは就任式において誓約されています。
他教会の就任式などに出席すると、この誓約を確認することが出来、たいへん有益です。

31741、「国籍は天にあり」、と語られます。
寛永十四年(1637)から翌年にかけて、島原半島南部で農民一揆が起こりました。
やがて、キリシタン一揆と合流し、双方の性格を持ちました。
島原の乱、天草の乱、と呼ばれます。戦国時代が終わった、と考えながら、本当にそうなのか、と半信半疑の頃に起こった戦いでした。徳川三代将軍家光の時のこの争乱を最後に戦いは影を潜め、太平の300年となります。この乱は、天草四郎時貞を総大将に、切支丹と呼ばれたカソリック信徒が結集し、そこに戦国生き残りの侍が参加したようです。
私見では、この結果、国内の生き残り・不平分子の大多数が一掃されることになりました。
切支丹宗門停止は国内に広く行き渡りました。切支丹への恐怖心も生まれたでしょう。
鎮圧に当たった幕府軍には、西日本に所領を持つ大名が参加しました。幕府から任命された者の指揮に服しました。結果、徳川将軍の権威が確立されることになりました。
また、ポルトガルとの交易は停止され、幕府に武器援助を行ったオランダとの交易のみが公許され、平戸出島が開かれました。第5次鎖国令です(1639、寛永16年)。

一揆勢は松倉氏の居城である森岳城(島原城)に迫ります。城を落とす事はできません。こうした動きは対岸の天草地方とも連動し、富岡城の攻囲も行われています。
一揆の終盤において主戦場となったのは、一国一城令により既に廃城となっていた原城。おもに島原半島南目(みなんめ、※南部の意)地方及び天草地方の領民併せて約37千人が立て籠もります。一方の幕府連合軍は総勢12万の軍勢によって、この鎮圧にあたります。
およそ3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、兵糧攻めによって疲弊した一揆勢は幕府連合軍の前に敗れ、一揆は終息。投降者はあったものの、一揆勢の多くがこの戦いによって亡くなります。一方の幕府軍もまた、甚大な被害を被りました。

『パライソの寺に参ろうぞ』、これが殉教しようとする者たちの合言葉であった、と聞きました。品川駅北口の近くに、カソリック高輪教会があります。この青年部が、60年ごろでしょうか、江戸の殉教者の事績を調べて小さな本にしました。その書名がこれです。
パライソは、天国、楽園のことのようです。殉教しようとする者たちは、死後の世界を信じていました。死んだ後、彼らの本国へ行く、と確信していたのです。

「私の国籍は、天にある」ということは、私たちは、いつの日か、そのところへ帰って行くのだ、ということを意味します。これは、天こそ私の本国にあります、という告白です。パスポートを持って旅行に出たのでしょうか。使命を与えられて派遣されているのかもしれません。いずれであっても、そこには目的があり、期限があります

人は誰でも、この地上に派遣されていて、そこでは使命があり、それを果たせば、本国へ帰らねばなりません。帰る人と,残る人との間では,多くの場合悲しみが生じます。充分使命をはたした、と感じられる人の場合は、多少悲しみは少なくなるでしょう。そこには充足感があるからです。

「天こそわが本国」、という考えは、この地上の姿は、仮のものであって、どうあっても良い、となる可能性があります。そして、此処からは、二つの考え方、生活態度が生まれます。
一つは、地上のことは仮のもの、過ぎ去るのだから、勝手気ままに生きようよ。
他は、過ぎ去る世界だからこそ、きちんと生きなければならない、とするものです。
快楽主義と、禁欲主義になるかもしれません。
同じ前提から、全く異なるものが複数、生じることは、決して少なくありません。

その理由は幾つも考えられるでしょう。先ず、理解が不十分である。
自分の過去の履歴、経験が大きく作用している。
利害得失が働いている。

パウロは、それらのことを理解していたのでしょう。
「主によってしっかり立ちなさい。」と締めくくります。
ここでは、訳の問題があります。「主によって」とあります。珍しいですね。
これは、ギリシャ語では、エン キュリオー。かつては、「主にあって」、と訳され、今は「主に結ばれて」、と訳されることが多くなった言葉です。おそらく、しっかり立つためには、支えが必要だ、それは主に依拠すること、というような考えがあるのでしょう。
英訳stand fast in the Lord
使命を果たすために、主にかたく結ばれて、しっかり立ちなさい、と勧められています。
道を歩く時、体の軸がぶれると、おかしなものになります。

詩編119133「仰せの通り  私の足取りを確かなものにしてください。
どのような悪も私を支配しませんように。」
少しばかりなら、悪に支配されてもいいか、などと考えていると、悪に呑みこまれてしまいます。支配されないためには、寸毫も許さない、と決意すること、悪を憎むことです。

平和聖日、戦争の惨禍、その後の悲惨がある。望まれないで産まれ出た子供たち。
エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館
鯛茂館長の話、
記念館は、澤田さんが集めた切支丹の異物、遺品を展示
魔鏡、踏み絵、白磁のマリア観音像、
立派な一枚の絵、天草四郎を描いたものらしい、しかも大変古い洋画
格調の高いもの、只者ではない。伝わってくるものがある。伺ってみた。司馬江漢。
これら切支丹遺物から力を受けて、澤田女史は働かれた。

此処に「主によってしっかり立つ」実例を見る。
私たちも、悪に抗して走りたい。



島原の乱
 時の島原藩主、松倉氏の治世下において行われていた年貢の取り立ては、本来の石高を大幅に上回るものであった。また禁教令に伴うキリシタンの取り締まりにあたって、棄教を拒むものに対する仕打ちは苛烈を極めた。こうした状況に寛永十四年の飢饉も重なり、ついに耐えかねた領民が代官を殺害する。この事件に呼応するように、島原半島各地で次々に領民が蜂起する。

 一揆の後、藩主の松倉勝家は所領を一部没収のうえ、斬首となっている。寛永十六年(1639)には第5次鎖国令によって、ポルトガル船の国内入港が禁止されている。なお日本においてキリスト教の布教を行ったのはポルトガルである。一揆において幕府連合軍に武器弾薬を支援したオランダとは、以後も出島の商館(1641)を通じた交易がある。鎖国政策による交易の制限は一揆以前より進められていたものだが、この第5次鎖国令については、一揆の影響も見受けられる。幕府の政策に影響を及ぼすほど島原天草一揆は重大な事件であったと言える。