2013年8月25日日曜日

苦しみを共にする

[聖書]フィリピ41020
[讃美歌]425,208,459、
[交読詩編]104:24~35、

212に始まる段落には、『共に喜ぶ』という小見出しが付けられています。
41020の段落には『贈り物への感謝』という小見出しが付いています。
それに対して、私は、『星のように輝く』、『テモテを派遣する』と題しました。
もっと素直に、小見出しと同じにしても良かったのになあ、と感じています。
わざわざ違う題にしたのには、理由があります。

小見出しは、聖書本文ではありません。読者の便宜を考えて付けられたものです。英語の有名な、権威ある聖書でも、かなり以前から採用されています。そうであっても、本文でないことは確かです。

過去の日本語訳聖書、文語訳、口語訳は、小見出しを持っていません。多くの個人訳聖書にも付いていません。小見出しは、その翻訳にかかわった人たち、学者による、ひとつの解釈です。便利に思い、利用することは結構です。しかし、それを絶対視しないでください。従って、礼拝の聖書朗読では、原則として、これは読みません。

新共同訳聖書を読むとき、どうしても便利な小見出しが見えてしまいます。新しい感覚で読むことも大事です。時には、見出しなしの聖書で読んでみて下さい。

私の青年時代、聖書は傍線を引いたり、書き込みをしたりして、読みなさい、と教えられました。書物は大事に、綺麗に読みなさい、というそれまでの教えと全く逆でした。同時に、まっさら状態の聖書も準備しておいて、新鮮感覚で接することも大事だ、と学びました。小見出しは便利です。同時にひとつの解釈、感覚に縛られる危険性があります。

 41220は、エパフロディトによってピリピ教会から届けられた贈り物への感謝・礼状と言えるでしょう。

フィリピの教会・信徒とパウロは、普通の信徒と使徒の関係よりも、よほど深く、強い関係を築いていました。フィリピの信徒は、パウロにとっては福音においても(15)、監禁されている時も、法廷で弁明する時も(17)、対立においても、苦しみにおいても(130協力者であり、他の教会と違って、幾たびとなくパウロの宣教活動のため、財政的援助を担いました41516)。

パウロはフィリピの信徒を心に留め17)、キリスト・イエスの熱愛を持って深く思い18)、彼の喜びであり冠である友として愛し、慕っています(41)。

この手紙のお礼状の部分には、素直な気持ちの表現とは、少々違うものを感じます。屈折した感情と言われるようなものが、感じられます。

「今まで思いはあっても」出来なかった、と。

「それを著す機会がなかったのでしょう」410

初めの言葉を少し引っ込めるようですが、矢張り非難は続く。

「自分は、贈り物を必要とはしていなかった」、また「求めてもいなかった」411

更に有名な言葉を、珠玉のような言葉を連ねる。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。

貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」41112

「足ること」を学んだ、満足すること。ギリシャ語のアウタルケースは完全なる自給自足を意味します。

「ミクロコスモス」という考えがあります。小さな世界、あるいは完結した宇宙でしょうか。自給自足する自己充足の社会を意味します。江戸時代の社会はこの自給自足社会であった、と言われます。

 

ミクロコスモスの実験

水と空気、それに砂や小石などを入れたガラスの容器に、小魚と水草とバクテリアを入れて密封してしまい、外部から完全に遮断する。外から入るのは、ガラス越しに入る光と熱だけという状態にする。すると、光と熱のエネルギーによって水草は炭酸同化を始めて酸素を発生し、魚はその水草を食べて生き続け、排泄する。その排泄物はバクテリアの営養になり、バクテリアによって分解されて水草の営養になる。

それぞれの量的バランスが適正に保たれれば魚は繁殖するが、増え過ぎてエサや酸素が不足すれば、弱い個体が死ぬ。死骸はバクテリアが分解して、小さな世界のバランスを回復する。・・・・・我々もミクロコスモスに生きているのだ。

 

このアウタルケイアによって、ストア派の人たちは、人間があらゆる人々から無条件に、完璧に独立している精神状態と、人間が何ものをも、誰をも必要としない状態を学んだ。

ストア派の考え方は、理性で自分の強い感情(情念)に打ち勝つことが幸福である、というものです。そして、「自然に従って生きよ」をモットーとしました。

「自然に従って生きよ」の意味するところは、 理性に従って生きることで、世の中の時代の流れとは関係のない独立した自由を得ることができる、というものです。
これは、パウロの時代、ヘレニズム世界の主要な哲学思想の一つでした。

 1112節に記されたパウロの言葉は、所有する物によって支配されない、という点でストア派の考えと似ているようですが、13節が、それを覆します。哲学的な言葉が続いたその次に「わたしを強めてくださるお方のお陰で」と言います。ストア派哲学は、理性によって自由になろうとします。パウロは、キリストのお陰で、一切のこと、全ての物において、すでに自由を得ている、と語ります。人の理性は、曇る時もあれば、弱くなる時もあります。決して絶対的なものではありません。キリスト・イエスは、常に変わりません。

 おそらく、フィリピの教会の人たちは、パウロのこうした考えを知っていたのでしょう。にもかかわらず、パウロへ贈り物を差し上げました。困窮の中にあっても、あの先生は決して普通の人のように喜ばないよ、当たり前のように受け取るだけかもしれないよ、と感じていたでしょう。それが事実となりました。パウロは、フィリピの人たちへの感謝を抱いています。それを表現します。それが、14節です。

 14節、文語訳「されど汝(なんぢ)らが我()が患難(なやみ)に與(あづか)りしは善()き事(こと)なり。」口語訳 「しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。」

新共同訳 「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」
苦しみを共に、スンコイノーネーサンテス ムー テー スリプセイ
スンコイノーノー、共に仲間として与る、仲間として参与する、
スリプシス、迫害、艱難、苦難、圧迫、苦労、苦しみ、悩み、(語源は、スリボー狭める)パウロは、フィリピの人たちを私の苦難の仲間になった、と言って称賛しています。

快楽主義といわれるエピクロス派はもちろん、禁欲主義とされるストア派も、苦難を喜ぶことはありません。キリスト教徒も同じです。苦しみ、悲しみ、痛みからの解放、離脱を求めるのが常です。その先に幸福があると考えます。

パウロを慰め、励まそうとしたフィリピ教会からの贈り物。受け取ったパウロは、贈り物を価値のないものとは言っていません。彼のために送ってくれたものを感謝しないとも言っていません。「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれた」と言っています。

苦難を避けようとするのが一般の人間、その考え方。それにもかかわらず、フィリピの人たちは、パウロを思いやり、あえて贈り物をしました。それは「苦しみを分かち合うこと」。

パウロのいう苦しみとは何でしょうか。スリプシス、スリボーを語源とする言葉です。
通るべき道が狭められることで、それは福音宣教の困難さ、信仰を保持することの難しさです。イエスを主キリストとして礼拝することの障害です。こうした苦難を一部でも分かち合おうとしたのが、フィリピ教会の人たちの行動でした。パウロは「喜びなさい、共に喜ぼう」と言います。喜びの共同体です。それは同時に苦しみの共同体でもあります。

パウロ最大の喜びは、フィリピ教会の贈り物と、それを促した愛とが神を喜ばせた、という点なのです。更に、パウロは、どんな贈り物も、贈り物をした人を以前より貧しくすることはない、と述べているのです。

神の富は、神を愛し隣人を愛する人々に開放されています。贈り物をする人は、以前にもまして豊かな、富んだ者とされます。

 どのような贈り物も、神への捧げ物として受け取られています。神が喜ばれる捧げ物です。捧げる者には、神よりの祝福が与えられ、多くの実を結ぶに至ります。

贈り物への御礼、素直さを欠いている。
贈り物は、神への捧げ物、神のもとで、君たちの勘定を増やしている。
神ご自身の祝福がある。
自分自身については、自足の生活、キリストご自身が必要を満たしてくださる。
礼拝の行為である。神が認め、あなた方の勘定を増やしてくださる。
商取引の言葉から、容易に信仰の言葉へと変えて行く。