2013年8月18日日曜日

平和の神は、あなた方と共に

[]フィリピ4:8~9、
[讃美歌]425、16、494、78、
[交読詩編]90:1~12

    (この説教は、会衆の顔ぶれにより、大幅に入れ替えました。)

本日の聖書、フィリピ489節は、お読み頂いて、ひとつのことを感じられたことと存じます。私たち日本人の社会通念のようなものが、此処にある、と感じられたのではないでしょうか。キリスト者が一般社会の道徳習慣に対してどのように考え、どのような態度を取るべきかについて考えることが出来るでしょう。

ここにある多くの徳目は、当時、ギリシャ・ローマ文化圏で正常とされた道徳思想です。
パウロはユダヤ人パリサイ派の道徳思想を持っている。同時に生まれながらのローマ市民として、ヘレニストの思想に親しんでいました。
キリストの教えは、それらとは、全く別の宗教でした。そのいずれかを選択し、取り入れる必要もなかったのです。道徳思想家の行動指針など必要としない教え、それほどに旧来の宗教とは隔絶しています。それゆえに、パウロにとって大きな問題が発生しました。
パウロが伝える教えに魅力を感じ、引き入れられる者たちの中には、ユダヤ教、キリスト教において禁じられているような生き方、人間関係を常とする男女がいたことです。
フィリピ教会で、多様な人々が、ユダヤの律法主義ではなく、またヘレニズムの道徳主義でもない生き方をすることをパウロは求めました。教会内で人々が、互いをそしりあうのではなく、いがみ合うのでもなく、折り合いを付けて、相手を認めて共に生きる道です。
外部に向けても調和的な生き方を勧めます。外部世界の人々からも認められるような生き方です。

福音信仰の砦たる教会を守り、宣教を進めるためには、教会員各員の良き聞こえが必要でした。パウロとその教会は、そのことに成功しました。やがて、手段であり、一つの方途であったものが目的のように考えられるのは止むを得ないことだったでしょう。

近代日本におけるプロテスタントキリスト教の宣教も、同じ轍を踏むことになります。
明治期では、封建制のもと身分制度からの解放が叫ばれました。換骨奪胎に過ぎなかった、と理解します。依然として身分と差別が行われました。
戦後日本は、新憲法のもと、全く変わったかのように見えました。それはうわべだけのことでした。古い支配層は、復活を策しています。
自由と平等、民主、平和が叫ばれるのは、それらが未だに達成されていないからに過ぎないように感じられます。差別の解消は、以前ほどには叫ばれなくなりました。達成されたのでしょうか。表面には現れない。水面下に沈んだ形で存在し続けているのです。若い政治家にとって老政治家は邪魔者に過ぎません。
被爆者が、受ける差別。知りませんでした。自分が被爆者であることを隠してきた、と聞き何故だろうか、と不思議に思いました。症状が感染すると感じていたのでしょうか。逃げ散って行った、と聞きました。
私たちの誰もが、差別する側の者であった、と気付くのです。慄然とします。

わたしたちを罪から解放し、自由にしてくれたキリストの十字架の福音が、その始まりとなってしまう。考えるだけでも恐ろしいことです。
自分は、福音を信じている。神との正しい関係に入らせていただいた。ありがたい。信仰に基づく良い行いをしている。他の人のお世話も出来ている。
信仰のない人たちとは違うことを感謝する。差別が始まってしまう。

一般道徳とキリスト教の関係を考えて見ましょう。
ただ信仰によって義とされるのであって、律法の行いによるのではない、という教理は、しばしば、一切の掟、律法を無視して恐れず、違反を敢行して恥じることがないということになります。そればかりではありません。異教社会の風俗、習慣、徳目等を軽視または無視する傾向は、キリスト者の中にしばしば見受けられるもの、と指摘されます。

しかしながら異教国日本の生活は、それほどに徳義善行において見るべきものがなかったのでしょうか。この民族の中でも、神は適当の方法をもって必要なる徳義と風習とを教えてくださったのではないでしょうか。その中にはそれらの国民にとって棄つべからざるもの、また棄つる必要のなきものが多く存在する。それ故にキリスト者なるが故にこれらを軽蔑しまた無視すべきではない。これらに対して相当の敬意を払うべきことは、当然のことと言わなければなりません。外国宣教師が敗戦国日本の古くからの共同体とその道徳習慣に対して尊敬を持たなかったことは、日本におけるキリスト教の発展の上に及ぼした障害は量り知ることが出来ないほどのものがあります。
 
カトリック教会は、ヴァチカン公会議において、世界各地において宣教を展開するに際し、各地旧来の土俗的習慣風俗を尊重するべきである、と決定し、教皇庁より通達した。同じ頃、日本政府は、各地方の祭礼を積極的に復興し、もって地方共同体の結合を強くすべし、と県庁から通達させています。地域の絆の再興、再編を求めたもの。そして家庭。
埼玉の小さな教会のとき、そのことを町の年寄り、町会長から教えられました。この背後には、靖国と神社神道が隠れている、と考えています。

八つの徳目を見ましょう。文語訳と並べてみます。
「全て真実なこと」(おほよ)そ眞(まこと)なること、 人間の真実さ。正直なこと
「全て気高いこと」(おほよ)そ尊(たふと)ぶべきこと、道徳的善の故に尊ばれること。品格
「すべて正しいこと」(おほよ)そ正(ただ)しきこと、法律的道徳的不正不義の反対。
「すべて清いこと」(おほよ)そ潔(いさぎ)よきこと、純潔、清浄なること。
「すべて愛すべきこと」(おほよ)そ愛(あい)すべきこと、人が一般に愛好すること。
「すべて名誉なこと」(おほよ)そ令聞(よききこえ)あること
 評判が良いこと、または人々によく聞こえていること(L3L1)の意味に解する。
「徳や」如何(いか)なる徳(とく)
: この徳 aretē はギリシャ古典において専ら用いらるる文字で、道徳を意味しているのであるが、パウロはできるだけこれを用うることを避けているかのようで、ここに唯一回用いているだけである。ここでも一般的に道徳として認められている事柄を指す。ロー(ギリシャ字母の第17字、r)のアレテーである。「徳、ギリシャ倫理思想において広い意味を持つ語、道徳的卓絶、卓絶した力(の現れ)」
これとは別に.ラムダー(ギリシャ字母の第11字,l)のレが用いられるアレーセーがある。辞書では本来、隠されていないこと、顕われているの意味である。その意味で、真の、まことの、本当のこと、真実な、誠実な。(レートーは隠れたの意、否定の接頭辞ア)。この部分最初の真実と訳された言葉が、このアレーセーである。
これは神学校で、アレーセーと言われるから「真理」、と教えられ、記憶した。
「賞賛に値することがあれば」いかなる譽(ほまれ)にても
賞賛、誉は、は一般の人々に認められることを指します。

以上に列挙された八つの事柄は、信仰より出てくる徳ではありません、一般に認められる社会道徳です。パウロはこれらを「心に留める、念(おも)ふ」べきこと、これに対して敬意を持つべきことを勧めています。これはキリスト者の謙遜の、当然の姿です。キリスト者は高い道徳水準を保持して、これを誇るようになり、その結果、しばしば一般の人々が道徳として尊敬している事柄について、一般の人以下の態度に出ることがあります。これは、悲しむべきことであり、充分に注意しなければならない事柄と言うべきです。
いわゆる旧来の陋習はこれを破らなければなりません。旧来の習慣の中に宿っている善い精神はこれを尊重して行くべきです。外国の習慣の盲目的模倣も、日本旧来の習慣の無批判的固執も、共に神から与えられた本来的意味の自由に関しては障害となります。

パウロは、このところで、キリスト教徒は、何よりも、その社会で受け入れられるほどであれ、と教えているのです。誰からも、後ろ指を差されるな、と。

「それを心に留めなさい」(なんぢ)()これを念(おも)。これは、考慮する、考える、推論することを意味する言葉です。考え続けることが求められます。学問研究はもちろん、日常生活の一こま一こまでも考えるのです。はてな、と感じたら考えなさい。
また、パウロがキリスト者を相互に、あるいはキリスト者をキリストに関係付ける時に用いる常套句であす。
「学んだこと、受けたこと」という表現は、伝承の受け渡しのことでしょう。ここに教会に独自性と連続性を与えることができる教えの根幹があります。おそらく、パウロは、フィリピの教会において、その礼拝その他諸集会で丹念に語り、教えてきたのでしょう。また自身の生活や行動についても、それを見習うように求めています。晩年のパウロが、それを語っています。
若い頃の彼は、キリスト教徒を迫害しようと家から家を襲ったり、息せき切ってダマスコへ向かったりもした人物です。おそらくパウロは、すべてのことに時あり期あり、としみじみ味わっていることでしょう。
「学んだこと」は「念(おも)へ」であってこれは生活上の参考であり、生活の原動力ではありません。生活の原動力は信仰であり、パウロの生活や教訓はその模範となるものです(3:17)。『愛はすべての原動力である』(原田季夫)

『すべての教会は、常に、形成途上にある』と書いたのは、エミール・ブルンナーです。バルト、ブルトマンと並び称される20世紀の大神学者。戦後の日本で、教育と研究活動をされました。とりわけ『無教会』に着目され、早稲田大学の酒枝義旗教授と協働されました。そうした中から生まれた書物の一つが『教会の誤解』、その冒頭に書かれた言葉です。「途上にある故に、常に問題を生み出し、その解決に向かって行動する」という意味のことも書いておられます。

教会に与えられる平和は、教会の内側に根拠を持つものではありません。そこには不和と対立があります。教会の外にもありません。そこには反対と攻撃があります。教会の平和は、ただ神にその根拠を持ちます。この神の平和が、私たちの心と考えを守ります。
個人も、教会も、主イエスを信頼して、思い煩いを止め、歩むことが許されています。
感謝して、祈りましょう。