[讃美歌21]6,352,411,78、
[交読詩編]119:33~40、
本日の詩編は、第3篇です。
この第1節を読むと、衝撃的なことが記されています。
「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。」
アブサロムは、ダビデがヘブロンでゲシュルの王タルマイの娘マアカと結婚し、生まれた息子(サム下3:3)。
彼は、全イスラエルのうちで最も美しく、足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった(サム下14:25)。
アブサロムは妹のタマル(英語版)を愛していたが、異母兄のアムノン(英語版)がタマルを手ごめにしたことに激怒した。2年の間、機会をうかがっていたアブサロムは、バアル・ハツォルに兄弟たちをすべて集める席を設けて、そこへ手下を送りアムノンを殺害した(『サムエル記』下13章)。アブサロムは母方の祖父であるタルマイのもとへのがれ、3年後に許されてダビデの下に戻った。
4年後、アブサロムは周到な準備をした上で父ダビデに対して叛旗を翻し、ヘブロンで挙兵した。当初、叛乱は成功するかにみえた。イスラエルとユダヤの民はアブサロムを支持し、ダビデの下にとどまったのはクレタ人とペレティ人、ガト人のみであった。ダビデは都落ちを余儀なくされた。
イスラエルの王ダビデは、一国を支配・統治し、その王権を拡大しました。その後、歴代の王は、このダビデを基準として、いかなる王であったか、評価されることになります。
このダビデ王は、意外にも家庭のことでは、それほど恵まれていた、とは思えません。
サムエル記下が語るように、我が子アブサロムが反乱を起こし、命を狙われ、エルサレムから逃げ出す。これほどの悲劇があるでしょうか。自分の命が危機に陥ることは、それだけで充分、悲劇です。我が子に狙われる、我が子が、父親殺しになろうとしている。
大きな悲劇です。そして、心ならずも我が子アブサロムを殺すことになります。
ダビデが、このような悲劇的状況の中でこの詩を書いたとすれば、我が子に殺されようとしている。殺さなければ殺されると考えるなら、我が子を殺さねばならない、という悲劇の中にいたことになります。父親であるわが身の危機と、我が子である者の命の危機、しかもその我が子は、父親殺しになろうとする危機でもあります。
戦場で、生命の危機と向かい合った牧師の書いたものを読みました。
桜井享(たか)著『ビルマ戦線と私』聖公会出版部、佐柳文男編
横須賀に生まれ、逗子開成中学から立教大学、聖公会神学校を出た櫻井さんが徴兵をうけ、一兵卒として入隊。選抜されて盛岡の士官学校に進み任官。陸軍大尉としてビルマ戦線の死の淵から生還を果たす物語。と言いたいのですが、昭和20年8月1日以降に、シッタン河を渡ることしか書かれていません。8月15日には停戦が命じられ、英軍の捕虜収容所での生活となります。ほぼ1年半後、故国へ帰還します。
中学時代、高野佐三郎師範より、剣道の指導を受ける。文武両道に優秀な成績。牧師が士官学校へ選抜されることは余りないことです。おそらく、剣道の成績が大変上首尾だったのではないでしょうか。対校戦では相手校選手全員を一人で倒したこともある。
この間、逗子聖ペテロ教会にて受洗。内村鑑三の『聖書の研究』の影響あり。
戦地には旧新約聖書一巻を持参。苦しい中でも日々通読に励み、とりわけ、詩編を愛読されました。ビルマで敗走の日々、ついに聖書一巻の重さすら重荷となり、読み終えた部分を焚き付けに燃やした。
インパール作戦は、牟田口中将が発起した無謀な作戦、と言われたり、大本営が認可した正しい軍事行動、と言われたりもしています。おそらく残された事実が真実を告げるでしょう。1944年3月8日、10万の兵士を動員、食料・弾薬等は1週間分を各自携行、爾後の補給なし。インパール占拠の目的は達成できず、転進という名の逃亡を続け、終戦までに3万を越す兵卒が野ざらしとなりました。白骨街道、または靖国街道とも、飢餓前線と呼ばれます。
インパール北部コヒマでは、戦史に残る激戦を繰り返しますが、佐藤師団長は師団全滅を無意味なことと断じ、総員撤退を命じます。一切の補給を受けられない中で、部下を死なせることは出来ない、と考えたものでしょう。有名な『抗命』事件です。佐藤中将は、15軍司令部に乗り込み、『牟田口を殺す』ことを企てますが、不在のため果たさず、後、精神異常あり、との処分を受ける。これは作戦本部の責任逃れのためです。
昭和22年3月、宇品港へ帰還、復員。
9月12日執事按手,横浜聖アンデレ教会副牧師就任。
昭和23(1948)年10月、逗子聖ペテロ教会牧師就任
昭和24(1949)年6月、司祭按手、
昭和25(1950)年4月、立教学院チャプレン就任
帰還後は、現地聖公会との交わりを軸に、ビルマを訪問し、戦没者の慰霊・追悼を行い、交流・親睦に努める。ビルマからの留学生のお世話をし、ハイスクール・バスケットボールチームを迎えての交流試合をセットする。
平成22(2010)年12月6日、帰天,96歳7ヶ月。
僅か65ページの手記、その最後5ページは「人間に確実なものは、何か!」を小見出しに、「人間の生とは何か、死とは何であろうか。」と書いています。
櫻井先生の経験は、インパール作戦全体の中では、南に偏り、最激戦地のコヒマ・インパールには近づいてもいないのです。それでも、過酷な作戦全体の姿を良く描いています。
更に、その中での内的葛藤と発見も描いてくれました。3箇所、読ませてください。
「結局、人生とは生と死の問題である。アルファとオメガ(初めと終わり)が人間には分からない。つまるところ、あちら側(彼岸)の声を聞こうとする姿勢がない限り、生と死のもつ意味はついに分からないであろう。」63ページ
「私は召集される前にも、幾度か「死」とは何かについて、考えさせられることがあった。・・・極限状況に到った人間には、もう自分のことで精一杯であった。いや、最後の土壇場では、自分自身に頼ろうとしても、人間はもう何も出来なかった。人間が人間を助けることもかなわなかった。『人間には確実なものは、何もない。ただ神の前に立つ人間しかない』と悟った。」61~62ページ
「私は戦いが休息する間によく詩篇を読んだ。私は詩人たちが何でもかんでも、一切の問題を神にぶっつけて要求し祈っている姿を発見して、びっくりした。・・・神は人間に対して、ただひとつの声を与えている。人間はどんなことがあっても、結局、最後は神以外に頼るべきものはない、ということであった。」62ページ
これが、ビルマ戦線での体験から学ばれたことです。私たちは、これらを通して、詩編の力を知ることができます。更に経験を書いています。
「自分だけの利益を願う者は、なかなか生きて帰ることは出来なかった。
配給される僅かばかりの米を独り占めしようとする者もいた。自分は、一人だけでは食べなかった。心情として,戦友を除外して、食べることができなかったのでしょう。
マラリアの薬、キニーネは使うことなく、他の人に分けた。スコッチのセーターも、自分が使うことなく、他の人の役に立てた。(シンガポールで有賀夫人より頂いたもの)。」
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、(私のために)自分の命を失う者は、それを見出すであろう。」マタイ16:25、
極限的な状況の中で、自分の存在の意味、生存理由は、他の人を生かすことにある、と気付かされました。教えられました。出征以前にも同じ言葉を知ってはいました。戦陣に立ち、生命の危機を実体験することで、それ以前とは比べ物にならないほど深く信じる者とされました。まさに詩篇の詩人と、同じ危機体験を分かち合い、詩篇が真実をうたっていることを知りました。救いは、ただ神にある。これこそ希望であり、慰めとなりました。
感謝しましょう。祈ります。