2013年9月8日日曜日

幸いな道を歩む

[聖書]詩編116
[讃美歌]6,227,504、
[交読詩編]15:1~5、
 

詩編、編という文字は口語訳までは竹冠。篇でした。

葦編三絶、これは漢文の熟語。葦編、いへんの本意は葦。水辺の植物で、その茎の繊維は有用でした。これを編んだものはパピルス、紙となります。竹簡(竹を薄く削って、そこに文字を書き付ける。日本でも発掘されている。木片の場合は木簡)を綴った革紐が、三度、切れてしまう、それほどこれを読んだ、という意味です。出典は『史記』の孔子世家。孔子が晩年、易を好み、周易を読むことが多かった様を表現しています。

中国の詩、漢詩と呼ばれますが、実際は唐詩と呼ぶべきでしょう。漢文・唐詩・宋詞と呼ばれます。唐詩を論じる文章の中に、この詩篇は、と竹冠の篇を用いているものがありました。たけかんむりは、竹・木簡に書き付けられたものを言い、糸偏は、それらを糸で綴り合わせたものを言う。

残念なことに竹冠は、常用漢字から外されました。似ている糸偏を用いたようです。

現代の書物は、上等のものだと糸で綴り合わせているからでしょうか。この頃は接着剤で製本しているようです。閑話休題。

 

詩編とは、詩集と同意語、と考えて間違いないでしょう。日本語では、旧訳聖書の中の、歴史的、信仰的なヘブライの詩歌を集めたものに限られます。英語では、Thw Book of Psalms と呼び、第1巻を、Book 1としています。

それぞれの詩が作られた時代、事情はさまざまです。紀元前十世紀以前のものから前三・四世紀ごろまで、およそ千年に渉ります。従って、繁栄の中で神を讃美するもの、王の即位式、新年の祭り、敵に囲まれている中で助けを求めるもの、深い罪の告白、悔い改め、その他さまざまです。一つ一つもそうですが、全体としても「イスラエルの祈りである」と言えるでしょう。

いまの形に編集した人や事情、なども判りません。

 

誰が作ったのか。詩人としか言えないように考えています。詩を書けば、あるいは書いたものが詩と認められれば、書いた人は詩人です。預言者、王ダビデ、祭司、天地創造の神、主なるヤハウェを信じる敬虔なイスラエル人。皆、この詩人の可能性があります。

旧訳聖書に見られる詩編のうち、最も古いものは、士師記5章の「デボラの歌」、あるいは申命記32章の「モーセの歌」、と考えられています。

 

詩編を説教しようとしていますが、実のところ私自身は、この「詩」というものがよく分かりません。青年時代、教会の年長の友人に「詩とは何か」、と聞いたことがあるほどです。彼は、君は意外と詩人だよ、と答えました。これは、当時神学生として、主日礼拝で説教した後のことでした。その説教が意外にも詩的な部分を持っていたことが、この友人を驚かせたのでしょう。私は、詩人でもないし、詩を理解することも出来ない人間。

ちょっとつまらないなあ、と感じます。

 

英国の人は、大変詩を好みます。ブラウニングの『春の朝』、17世紀のトーマス・ケン、

有名なシェイクスピアー(15641616)、『ハムレット』や『リア王』、『ロミオとジュリエット』などの作者、戯曲作者として知られます。しかし、それ以上に詩人として名が高い人です。

 

日本では、教養ある人は、漢詩を作りました。手許に『漢和名詩類選評釈』という本があります。大正31914)年10月初版、昭和589月修正96版発行。1000頁、4800円。頂き物。索引の一つは、中国の詩人の名前と,日本人の名前に分かれています。日本人の名は。足利義昭、新井白石、上杉謙信、江藤新平、木戸孝允、西郷隆盛、菅原道真、武田信玄、伊達政宗、乃木希典、頼山陽など。文人とは考えていなかった有名人たちの名が多く視られます。頼山陽は詩人・文人として知られ、乃木希典は、明治天皇に殉じて、自死した明治期陸軍の将軍。新井白石は、政治家で学者、『折りたく柴の記』で文名も高い人。

当然、漢詩を書いていることになります。特に武将の詩は、高く評価されています。若い下積みの時代、寺に預けられるなどしたときに、修行しています。

 

現代日本では、如何でしょうか。私は、よく知りません。

中勘助、串田孫一、おふたりは日本の代表的純詩人としてよく知られます。

串田さんだったかな、「人は誰でも一篇の小説は書ける。しかし誰でもが詩人になれるわけではない。」と言われました。自分の生涯を書けば小説になる。詩はそうは行かない、と言うことです。事柄の真実を見抜き、選び抜かれた言葉でそれを表現する。これは誰でも出来ることではないでしょう。詩人には特別な眼と心が必要だ、と感じます。いわば、詩的感性、というべきものです。誰でも詩人に成れるわけではなさそうです。

 

佐藤春夫、井伏鱒二(佐藤に師事)、この方たちは、中国の詩を日本語の詩に訳されました。その見事さは翻訳というよりは、新しく別の詩を創作したようなものだ、と評されたことから、分かるでしょう。佐藤は、その本質は詩人である、とも言われるほどです。

国木田独歩、島崎藤村、小説家としても有名です。

クリスチャン詩人では、八木重吉、水野源三、河野進、星野富弘、

 

  八木重吉

天というのは

あたまのうえの

みえる あれだ

神さまが

おいでなさるなら あすこだ

ほかにはいない

 

病まなければ」 河野進

病まなければ 捧げ得ない悔い改めの祈りがあり

病まなければ 聞き得ない救いのみ言葉があり

病まなければ 負い得ない恵みの十字架があり

病まなければ 信じ得ないいやしの奇跡があり

病まなければ 受け得ないいたわりの愛があり

病まなければ 近づき得ない清い聖壇があり

病まなければ 仰ぎ得ない輝く御顔がある

おお 病まなければ 人間でさえあり得なかった

※ 河野進 1904(明治37)年生まれ。岡山倉敷の玉島教会牧師。キリスト教社会運動家で有名な賀川豊彦の薦めにより、岡山ハンセン病療養所における慰問伝道に50有余年をささげた。1990(平成2)年、86歳で召天。

 

讃美歌集を出版する時、その第1曲を何にするか、編集者たちは悩むそうです。

旧讃美歌「神の力を 常世に讃えん」ロバート・ブリッジス詩、ダビデ詩編歌、ジェネヴァ

第Ⅱ編「心を高く上げよう」ヘンリー・M・バトウラー詩、アルフレッド・M・スミス曲、

讃美歌21「主イエスよ、我らに」ウィルヘルムⅡ世、カンシオナーレ ゲルマニクム 

第1曲によって,その歌集の全体像を示そうとする。オペラの序曲と同じ。

聖書の詩編は150編、その第一の詩によって全体が見えてくるのではないでしょうか。

そうは言っても、それを読み解く素養がなければ、理解は難しいでしょう。

詩が持つ力の不思議さは、素養がなくとも、直感である程度まで理解が可能であることです。難しい言葉、普段使っていない言葉が続いても、心のうちに響いてくるものがあります。感じられます。

この詩編第1編もそうです。

1節は、「・・・しない人は幸いです」、と謳います。

「神に逆らう人」、英訳では、ungodlyとなっています。「計らいに従って」、旨く訳しています。ある人は、これを、悪の道に落ちて行く第一歩、と解釈しました。誘惑するものは、最初、言葉巧みに、面白い話を聞かせる。善意で、その話に耳を傾けている。歩きながら。次の行は、それが、立ち止まっての立ち話に変わって行くことを示しています。

誘惑者の巧みな手立ては、ついに、一緒に座り込み、話しこんで行くように進みます。

初めは、この程度なら大丈夫、と考えています。次第に深みにはまって行きます。

 

 アメリカの社会心理学者、エーリッヒ・フロムは書きました。人間は、本来悪に対して自由を持っている。フリーハンドだ。しかしその自由をどこかで少しずつ手放して行き、全く不自由であるかのように、悪の思いのままになってしまう、と。

一日の仕事を終え、会社を出る。今日は良い一日だった。気持ちが良いし、暑くて喉が渇いた、まっすぐ帰るべきだが、一杯くらいなら良いだろう。『スーダラ節』の世界。

作詞、青島幸男。真面目な植木は、こんな歌を唄いたくなかったそうです。真宗寺院の住職である父親に「親鸞上人の教えとぴったり。ヒット間違いなし」と言われて、唄うことにしたそうです。私は、ロマ書719と詩編1とぴったり合致する、と考え、興味深く聞いていました。

チョイト一杯の つもりで飲んで

いつの間にやら ハシゴ酒

気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝

これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ

分かっちゃいるけど やめられねえ

 

ねらった大穴 見事にはずれ

頭かっときて 最終レース

気がつきゃ ボーナスァすっからかんのカラカラ

馬で金もうけ した奴ぁないよ

分かっちゃいるけど やめられねえ

ア ホレ スイスイ スーララッタ

スラスラ スイスイスイ

スイスイ スーララッタ

スラスラ スイスイスイ

スイスイ スーララッタ

スラスラ スイスイスイ

スイスイ スーララッタ

スーララッタ スイスイ

 

アメリカ人のフロムは、もっと深刻な姿を描き出しています。

人は皆、幸せを求めて生きています。旨く行かないのは、このくらいなら、という油断が働いています。

 

 6節、知っていてくださる。神は従う者、逆らう者、いずれの道も知るのではないのか、と問われるかもしれません。ヘブライの言語では、知ることは愛することであり、一体となることです。リンカーンは、南北戦争中に祈りました。

「神よ、私と共にいてくださいとは祈りません。

私がいつも、あなたと共にいることができるようにお助けください。」

詩人は、神に従うことの喜びを歌います。神を知らず、自分の利得だけを考え、他者を切り捨てる生き方に訣別しましょう。それこそ、私たちが歩むべき幸いな道であります。