2013年10月13日日曜日

神を信じる

[聖書]詩編1417
[讃美歌]502,37,536
[交読詩編]31:15~21、

前主日の週報予告で、交読詩編14、となっていました。見落としをお詫びします。
二週連続で、この講壇を留守しました。事情はやむなし、と考えていますが、できるだけ、護り続けたい、と感じています。
二週連続の葬儀、これは久振りのことです。御殿場では通常のことでした。特養ホームがありました。「死」は、日常の事。しかしその個人の死は、ただ一回限りのことなので、非日常、といわざるを得ない。初めてのことであって、再び起こることは、決してない。
回数が多くても、慣れてはいけないのです。

この詩編は、この地上に、神に対する不敬・不虔が満ち溢れている様を述べている。
社会の無秩序、混乱、弱肉強食の有様。神への憧れを失った人間の悲しい帰結です。

これは現代の事情をそのままに表しているかのようである。
科学、技術はこれまでにないほど大きく発達している。まさに、日進月歩の時代。
信仰の学問、神学にあっても事情は同じ。若い時代の神学書は、現代には適合しなくなり、古本屋でも買ってはくれなくなってしまう。

「日本は、世界中で一番安全です」。これを売り物にしてオリンピック招致。「原発は、完全にコントロールできています」と明言。あわてて視察に行ったものの、そんなことで好転するはずもない。そして言葉遊び、アレは、影響が、と言ったのだ。

ラジカセが発売されたのは何時だったろうか。まだ青年時代、こういうものが欲しかった、と思い、直ぐに購入し音楽番組から録音し、繰り返し楽しむことが出来た。岩槻時代は基本的には、ラジカセでした。大阪時代は、様変わり。今やその程度のものは、手のひらに収まってしまうようです。小さいこと、視力が衰えたこと、変革に無関心だったこと、これらが原因で、余り楽しめなくなっています。

携帯電話などは、陰も形もなかったものです。いまや小型のパソコンに匹敵する力を持っている。そうでありながら、従来型のケイタイは、いまや絶滅危惧種、と言われ、10年前後で消滅するだろう、と言われている。スマフォとタブレット端末が取って代わる。
パソコン自体、こんなに発展するとは思いがけないことでした。もっと先のこと。
ところがいまや、コンピューター制御はあらゆる分野で視られるものになりました。

戦後、存在するようになったものが、早くもその存在をやめようとする。
日進月歩で進歩する時代は、矢のように早く消え失せる、消滅の時代。
そこでは、賢い者が、格好をつけて、自分の正しさを見せ付ける。充分に考えた、と見せている。国民・大衆は、素直にそれを受け入れる。消費増税や、TPP問題。

ドヤ顔の大将、してやったり、愚昧な大衆・民衆、などという考えは全体主義国家のものと考えていた。それを民主主義国家で観ることになろうとは、悲しい限りのこと。
国民は、自分たちに相応しい政治家を持つのです。

人は自分のことばかりを考え、その地歩を固めるために、人を蹴落とそうとする。
自分の力を誇り、無力な者、弱い者を悪し様に罵る。
神を信じる心を欠いている。
むしろ、自分にとって都合のよい神々を描き、その時々の御都合で従わせ、利用している。

 

本日は、伝道献身者奨励日。
先日、ある人と久振りに会って、食事をしながら話しをした。
若い日、伝道者を目指して受験した。召命感が足りない,とある試験委員が言い,落とされた。「また来年」の言葉もなかった、と言い、それで終わった。そして老人介護の仕事に打ち込んだ。今は施設長、法人常務理事。
この仕事は限りなく牧師の仕事に近い、と語る。

 

特養や、ケアハウスの仕事は、キリスト教と関わるところで行われてきた。最初の特養は、浜松の聖隷保養園を長谷川保氏と共に作り上げた鈴木生二氏の力による。ドイツから来たディアコニッセ、ハニー・ウォルフさんたちに教えられながら。浜松市北部に設立されました。法律が制定される前の年のことでした。これが《十字の園》第1号です。10年後に第2号《御殿場十字の園》、更に10年すると《伊豆高原十字の園》。鈴木氏は、遠州教会、御殿場教会、伊東教会と移って行きました。そのようにして、教会が施設を支える体制を作られました。

「夕暮れになっても光がある」(旧約聖書 ゼカリヤ書14章7節)は、十字の園の理念の聖句であり、初代理事長鈴木生二氏が選定した愛誦聖句、「事業の目標」でもあります。

長谷川保さん、鈴木生二さん、そして施設長、いずれも献身者であり、牧師の説教よりも大きな伝道の働きになっているでしょう。

 

929日、横浜市・長津田で、葬儀の司式をしました。この方、石原重徳先生の父親は、新宿柏木で内村鑑三宅の隣に開業され、主治医を勤められました。子どもたちは、日曜学校へ通いました。ある日、内村先生は言われたそうです。
「重ちゃん、君は教会へ行って、ちゃんとクリスチャンになるんだよ」。
石原先生から、この話を伺ったのは、駿河療養所の中だった、と思います。20年ほど経ってから、御家族からこんなことを言われました。「父は、先生からであれば、受洗する気持ちでした。先生がもう少し長く居てくださればねー、とよく言っていました。」

結局、先生は無教会を貫いたことになりました。

先生は、旧制松本高校から東北帝大医学部に進み、ここで学徒出陣。大陸からフィリピンニューギニアへ渡り、そこで終戦を迎えます。捕虜収容所の生活も経験。多くの戦友が死んでいった、自分は生き残った。彼らの分も生きる、世のため、人のため働く。これが先生の覚悟でした。療養所の元患者さんたちも知っています。

だからこそ、人の嫌がるハンセン病療養所に来ました。

1961年マニラでの学会に出席し、隔離収容するのではなく、在宅治療をすべきだ、と学びました。帰国後、各方面にひそかに働きかけ、愛知県名古屋の県立病院の協力を取り付け、以来退官するまで、このスキンクリニックの仕事を続けられました。1963年から1985年。金にならず、名誉も賞賛すら受けない。却って、療養所内でのみ治療をする、という国法を破っている負い目を背負い続けました。

しかし、「らい予防法廃止に関する法律」が19996年に成立。

1998年、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が起こされ、2001年原告の全面勝訴となりました。この結果、元患者側は、医療関係者を鬼畜である、として追及しました。
葬儀の前に、元患者さんから電話を頂きました。「私たち夫婦は、石原先生の御恩義を決して忘れません。深く感謝しています。御家族にお伝えください。」
石原先生は、もうハンセン病にかかわりたくありません、と仰いました。生涯掛けたお仕事の報いがこれでは、余りにも惨めだ、と思います。

全患協の委員もしたある人は、「この中で生活するためには、あの人たちに同調せざるを得ないのです。」と言いました。この世的には、何ら報いられる所がなかった。それゆえに、主イエスは、これを本当の献身と見てくださいます。

偉い人にならなくて良い、立派な人になりなさい。人の嫌がる仕事を選べば、どんな不況でも、職はあるものさ。これは、内村門下の先生方が、教えたことだそうです。

塚本虎二(日曜学校の先生)、石原謙(東北帝大聖研指導)、鈴木弼美(すけよし)さんとは、その晩年に至るまで交信。

鈴木弼美(18991990)は、山形県西置賜郡小国町にある《キリスト教独立学園》の創立者です。飯豊、朝日連山に囲まれた豪雪地帯です。山梨県に生まれ、東京帝国大学物理学科を1926年(大正15)に卒業し、大学在学中内村鑑三の門に入り(1924年)、キリスト教を学び、物理学の真理よりも信仰の真理の方がなお偉いことが分かり、聖書の研究を一生の仕事と考えるようになりました。

そして内村先生の求めに応えて、1934年、少数教育の学校を始めました。303クラス。
「神を畏るるは学問の始め」、これが学園の教育方針です。すべて内村先生から受けたもの。

1.「神を畏れる人」を育てる
2.「天然から学ぶ」人を育てる
3.「労働することが好きな人」を育てる
4.「自ら学ぶことが好きな人」を育てる
5.「平和を作りだす人」を育てる

読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、なすべきことは労働

伝道献身者奨励日の本旨は、伝道に専念する伝道者を指しています。
私は、自分自身がその伝道者ですから、自己満足にならないように考えます。
本当に神を信じ、すべてを神に捧げた人を覚え、その活動のために祈りましょう。