2013年10月27日日曜日

何を誇りとするか


[聖書]詩編20110
[讃美歌21]502,358,378
[交読詩編]19:1~7

本日の詩編は、第20編。余り読まれていない、と感じます。次に読むのは23編です。

その間に2122編があります。こちらの方が読まれている、有名な詩篇と言えば、どちらかと言えば、こちらの二つでしょう。説教のために、どの詩編を選ぶか、その基準は何か。実は基準はない、と言うことが明らかになりつつあります。

二・三ヶ月先まで、説教の予定を立てます。詩編の場合は、よく知られているもの、自分の感覚に触る言葉を捜して、それを選びます。今朝の20編は、6節「旗を掲げる」、8節「戦車を誇る、馬を誇る」という言葉に引っかかりました。

 

20編は、七十人訳では19編とされています。そして伝承本文(マソラテキスト)との間には多少の違いが見られます。

前半は集団的な嘆きの歌、後半は個人の感謝の歌ですが、全体としては王の歌と考えます。

祭儀的な背景に関しては、さまざまな主張がありますが、結局は、王の即位に際して王の幸いを祈った詩、あるいは新年に王が新たな年の支配を始めることを祝い、祈ったものと理解するのがよろしいようです。

 

1節には、「ダビデの詩」、とあります。ダビデ自身のものとすることはできないまでも、その時代のものである可能性は考えられます。

 

2節「苦難の日」悩みの日、何時のことでしょうか。過去のことと解することが多いものです。意外にも、ここでは、今後のこと、と理解されています。

 

6節「旗を掲げる」、旗を立てる。旗は神の現在のしるし、救いのしるしと理解されます。

私たちは、どのような時に旗を立てるでしょうかか、そこには、どのような意味があるでしょうか。掲げる旗印によって、自分が服属するものが何か、明らかにする。その旗印を誇り、重んじる。

 

いろいろな旗を見て見ましょう。

日本の軍旗について

帝国陸海軍は、天皇の軍隊であり、その国土、財産を護るためのもの。明治国家は、天皇主権を定める憲法に基づいている。天皇の軍隊の印が軍旗。

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となった。このとき、軍旗紛失事件が起こりました。天皇から下賜された軍旗です。連隊長乃木希典少佐は、責任を感じ、死を望みました。

 

明治101877)年222日、乃木少佐率いる小倉歩兵第十四連隊は向坂で薩軍と遭遇。この地に222日午後10時、植木から退却した乃木少佐は、点呼のあと十四連隊旗と河原林少尉の不明を知り自決を図ったそうである。

 

1)薩軍本隊が薩摩を進発したのが明治10年2月15日

2)北上、熊本城を取り囲んだのが一週間後の2月22日

  しかしながら当初の目論見と違い、熊本城は中々堅固で落ちません。

3)そこで城の強襲策を長囲策に切り替え、軍を北上軍・長囲軍に分けたのが2月24・5日。

  その間、熊本城籠城軍の救援の為南下してきたのが小倉第14連隊(連隊長乃木希典)

 植木・木葉で戦闘があります。薩軍に軍旗を奪われたのがこの時。

 

日本人の間で最もよく知られる旗、紅白の旗です。

起源は、源氏の白旗、平氏の赤旗。今日に至るまで、紅白対抗戦の形で残っています。

 

維新のときの「錦の御旗」

赤地の錦に、日月を金銀で刺繍(ししゅう)したり、描いたりした旗。鎌倉時代以後、朝敵を征討する際に官軍の旗印に用いた。錦旗(きんき)。後になると、自分の行為・主張などを権威づけるために掲げる名分を意味するように用いられました。

 

御旗・楯無、甲斐の武田家に伝わる重代の宝物。日の丸の旗印と鎧

新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇から下賜された「日の丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。これが、義清・清光父子とともに常陸國から甲斐國に伝えられ、甲斐武田家の家宝となったのです。

以来、御旗・楯無鎧は、武田家の惣領のしるしとして、信玄・勝頼に至るまで代々引き継がれていきた。   戦国の武将甲斐武田氏祖先発祥の地を偲ぶ会事務局
  茨城県ひたちなか市武田874-1 ()大谷酒店内

 

コンスタンティヌス大帝の旗、十字架と「トゥイ トーイ ニカ」。312年のこと。

ディオクレティアヌスは帝国を分割して残します。彼が引退すると、副帝たち、その息子たちは対立し、ソウランを始めました。副帝の息子コンスタンティヌスは、ブリタニア(イングランド)とガリア(フランス、スペイン)を領有していました。彼は、マクセンティウスと覇権を争いました。ローマを目指して進軍の途上、「日没ごろに太陽の上方に燦然たる十字架の形の光と、『この印によって征服せよ』という意味のラテン語が顕われたのを仰ぎ見ました。」トゥイ トーイ ニカ。彼は勝利を確信し、この神を信奉し、勝利を収めました。その後キリスト教徒になり、キリスト教を国教とします。

   塚本虎二の語録集の書名は『友よ、これにて勝て』

 

こうした旗を挙げる、掲げることによって人は、自分が何を主として仰いでいるか、誰の意思に従っているか、誰を誇りとするか、明示するのです。

 

7節以下は、後半となります。前半の祈願に応え、神の託宣が与えられ、祈りの聞かれたことが確かになる。

「油注がれた方」受膏者は、油注がれた王を意味します。

 

8節は、聖戦の伝統を語っています。詩人は、そうした時代にあって、歌います。人は、

強力な敵対者に対抗するため、エジプトや、自分たちの戦車や馬に依り頼もうとします。こうした北王国イスラエルに向けて、古い信仰の伝統を新たに生きようと勧めます。

 

詩人の信仰は、決して理想主義的なユートピア思想ではありません。救済の事実を背後に持っているのです。イザヤ311以下に、詩編20編に合致する事情が記されています。

 

紀元前705年、ユダの王ヒゼキヤはシドンとアシュケロンと結んでアッシリアに反旗を翻しました。アッシリアは初め東方の反乱鎮圧に力を取られていましたが、701年になってユダに攻めて来ます。ヒゼキヤが頼りにしていたエジプトは軍隊を出しますが、エルテケの戦いで撃退され、ユダ全土をアッシリア軍が席巻することとなりました。エルサレムの城壁の前に立ったアッシリアの使者は勝利を誇示し、降伏を勧めます (列王下18:17以下)。軍事同盟は、肝心なときに役に立ちませんでした。エジプトもアッシリアの勢力をくじきたいのはやまやまですが、犠牲が大きすぎると思えばさっさと引き返すのは当然です。

  1節の「頼りとし」「尋ね求めようとしない」は過去形で、ユダがすでに相当の打撃を被った段階での預言であることを示しています。主なる神を頼まないで馬と戦車と騎兵に頼った誤りがこの事態を招いたのです。驚いたことに、災いをもたらしたのは主ご自身です。裁きのことばが取り消されることはありえず、悪を行う王宮は懲らしめを受けねばなりません。「主がみ手を伸ばされると、助けを与える者 (エジプト) はつまずき、助けを受けている者 (ユダ) は倒れ、皆ともに滅びる」。

人を頼って神を尋ね求めない者はうつろいゆく肉にしがみついき、生かす力である霊を失うからです。しかし、まだ希望はあります。人間のものではない剣によって、神はアッシリアを倒してくださるからです (8)。その預言のとおり、本国の異変のためか疫病のためか (列王下19:7, 35)、敵は囲みを解いて退却しました。

  この10年、日本はますます軍事同盟の深みにはまっています。2004年から人道支援の名でイラクに派兵された航空自衛隊のしごとのほとんどが武装した米軍兵員の輸送だったことが裁判で明らかになり (2008417日名古屋高裁判決)、米・豪・加・韓などとの環太平洋合同演習では2010年に自衛艦も退役した米艦船を砲撃・撃沈し、2012年には海将補 (少将に当たる) が統合軍副司令官を務めました。今、どうすれば主を尋ね求めることになるでしょうか? (高市和久)

彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを誇り、頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしないのです(イザヤ311)

戦車、馬に依拠する心は、掲げる旗印にも依り頼もうとするでしょう。

 

詩人は、神にたてられた王が、敵対者と戦うことを知っています。その時、王自身がその敵対者同様、馬や戦車に頼るかも知れない。それは、決して力を持たず、敵に勝利を収めることは出来ません。

 

イザヤ書を聖書の預言書と信じるユダヤ人たち。彼らは、何を誇りとし、頼りとしているでしょうか。主の掟を守るから、神の民であると誇ります。しかし存在の危機にさいしては、同盟国の支援を頼みとし、軍事的な威力によって敵を撃退し、国境線を守ろうとします。ヒゼキヤはエジプトの馬や戦車を頼みとし、同盟を結ぶことでアッシリアを退けようとしました。アモツの子イザヤも、イスラエルの詩人も、存在の危機に対処する道は、そこにはないと語り、歌います。そうした状況だからこそ、神により頼むべきです。

 

今この国は、軍事同盟に依り頼み、国民の愛国心を煽ります。国を守るための法律を作り、国民から言論の自由を奪い、知る権利を奪おうとします。そうするならば、他の国々と対立し、争い、傷つけあうことになるでしょう。この世界の滅亡を来たらせるものです。

旧約の詩人は、人が生きる道は、人の力を誇る所にはないことを示しました。

自分の力を誇りとしてはいませんか。他者の力に依頼してはいませんか。人間は滅びるもの、変化するもの。はなはだしく偽るものです。

エレミヤ179、「心はよろずのものよりも偽るもので、はなはなだしく悪に染まっている。誰がこれを、よく知ることができようか。」

 キリスト・イエスは、人が生きる道、世界が永続する道は、愛をもって、互いに仕えあうことにあると教えました。 

 

そうした人の尻馬に乗ってはいませんか。「虎の威を借る狐」になってはいないでしょうか。悪霊の主権、悪の諸力の支配に服してはなりません。

私たちは、どのような旗のもとに集まっているのでしょうか。こひつじの旗のもとに。

人間が、互いに信頼することができるならば、麗しいことです。この社会は、相互信頼を根底のものとしています。にもかかわらず、人が真に信頼し、誇るべきは、馬や戦車ではなく、キリストにおける神の愛です。「誇る者は主を誇るべきである」Ⅱコリント1017

私たち罪人の赦しのために、御自身をお捧げ下さった、こひつじなるイエスの旗のもとに集まりましょう。