2013年11月3日日曜日

主は私の羊飼い


[聖書]詩編2316
[讃美歌]Ⅱ編_144、21_382,21_111
[交読詩編]51:3~11、

もっとも有名な詩編の一つ、それ以上に愛されている詩篇と言うべきだろう。
たいへん美しい信頼の詩編です
必ずしもダビデ王が書いた、とは考えません。
また、この詩人の若い日の作品、とも考えません。

この詩が書かれた背景を考えます。詩人は、イスラエルの人。このイスラエルの国土は、聖書では「乳と蜜の流れる地」と記され、美しい肥沃な所と考えられます。ところが、現実は大違いです。1000メートルぐらいの中央山脈があり、そこから西の方、地中海の海岸の平野部へ向かって傾斜しています。東にはヨルダン川が流れます。北のガリラヤ湖から流れ出し、死海へ注ぎます。このあたりは亜熱帯気候です。古代世界では、恐らく樹木も繁っていたようです。北にはアッシリア、バビロン、ペルシャなどが繁栄し、南にはエジプトが勢力を張っていました。双方が派遣を狙い進出しようとしました。南北が衝突する戦場は、ユダヤ、シリアでした。多くの大木が切り倒され、育つ時間は与えられませんでした。昔は樫や杉、柏、無花果、ブドウ、ナツメヤシ、オリーブ、アカシヤ等が繁茂し、野獣がたくさん居たそうです。

紀元70年、ローマの軍勢が、ユダヤ人の立て篭もるエルサレム城を包囲しました。続いてマサダの要塞を包囲。落城、ユダヤ滅亡までにどれほどの木材が必要だったでしょうか。

イスラエル・ユダヤの大地の多くは、砂漠のようになりました。石灰岩質の岩が露出しました。羊が生きるには、困難な場所です。羊飼いの力が重要です

 

この詩人は、自分自身を羊と同定しています。「私は牧場の羊」のようなものです。

羊は大変弱く、おとなしい動物、あの眼を見ても柔和そのもの、と感じられます。

羊は愚かです。草を食用にしますが、その根まで食べてしまいます。牛は、草の根は食べません。必ず残します。牛の牧場では、根が残っているので、必ず草は再生します。羊は、草のあるところを求めて歩き続けます。導く羊飼いが必要です。羊飼いに守られ、導かれ、生きることが出来ます。ある時には、その群れからさまよい出で、穴の中に転げ落ち、出ることも出来ず、羊飼いが見付けてくれるまで鳴き続けることしか出来ません。

 

それにもかかわらず、羊は大変有用な動物です。このことは北海道の人はよく御存知でしょう。何も捨てる所がないほどに利用しつくすことが出来る。毛は羊毛として、布や紐・ロープになります。皮は衣料品や敷物に。肉は食用、油をとることも出来る。内臓も食用に。更にガットと呼ばれて丈夫な縒り糸になる。あるいは肉を詰める。乳はチーズなどになります。しかも羊は多産系です。中近東では、大事な財産として数えられます。

大変従順で、先頭に立つものについて行きます。

 

こうした羊の姿は、矛盾に満ち、人間の姿そのままです。

あるときは従順に従います。次の瞬間には、羊飼いを見失い、自分の欲求のままに歩き出し、岩に足を取られ転倒し、起き上がることも出来ず、鳴いているばかり。次第に弱くなります。またある時には、向こうへ行こうよ、もっとたくさんの美味しい草があるよ、と言う声にだまされ、盗まれた羊となり、食い物になってしまいます。

これは、まさに人間の姿です。安全無事な道を導かれていることに満足せず、楽な儲け話に飛びつく。そして高転びに転び、その穴から抜け出せず、わが身の不幸を嘆く。

何故、私だけがこんな不幸になるのか?見えているようで見てはいない人間は近視眼の羊。容易にだまされる人間は、盗み出そうとする盗賊にだまされる欲張り羊。

とかくこの世は欲と金の世界。

 

 このような羊を、主は共にいて、守り導いてくださる。私の能力や、魅力の故にではなく、主御自身が救い主である故に、み名の栄光のために助けてくださる

 

ここには、青年の頃、これを読んで不思議に感じたことがあります。

「汝のしもと、汝の杖、我を慰む」。先ず「しもと」って何だ。

しもとは、難解でした。昔、罪人を打つのに用いたむち。比喩的に、人を責める厳しい戒め。「心を鞭(むちう)つ―」。細枝・・・長く伸びた若い小枝。葉を取り除いて、罪人を打つのに用いることも出来るでしょう。見るからに恐ろしいもの、人の意気を阻喪させるものです。これは鞭のことでした。

「杖」は、「転ばぬ先の杖」と言うように、人の歩行を支える大事なものです。しかし同時に、打ち叩くことにも使われました。 人を打ち叩く道具が杖、しもと、と考えました。

同じものが羊飼いの手にあるとき、羊は何を感じるでしょうか。慰めを、勇気を与えられる、と言います。羊飼いの手にあるしもと、杖は、羊を打ち叩くものではなくて、羊を守るため、盗賊や野獣と戦う武器になります。その様を見た羊は、安心することが出来ます。それは、恐れに縮み上がっていたものが、生き返る様にも似ていました。

 

もう一度、6節をお読みします。

命のある限り  恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り  生涯、そこにとどまるであろう。(236

 

神様の恵みと慈しみは追いかけてきます。そうです。神の恵みは私たちが必死に追いかけて、「これこれをしますから、与えてください」と言って取り引きをしてやっと得られるものではありません。恵みと慈しみは追いかけてきているのです。往々にして私たちが目を向けていないだけ。気づいていないだけの話です。この人にはそれが見えていた。私たちも見えるはず。

 

 そして、この人は恵みに追われてどこに向かっているのかも知っています。帰るべきところを知っている。それは「主の家・住まい」です。人生の終わりに帰るべきところを知っているのは、幸いなことです。本来の意味では、エルサレムの神殿を指しています。

6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。

 

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。

 

最後に、思い出しましょう。主イエスは、金曜日、十字架につけられました。その夕刻、アリマタヤのヨセフが自身のために用意してあった新しい墓にその身を横たえ、安息を得られました。マタイ福音書275761に記されています。

 

57夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。58 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。59ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、60岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

 

主イエスの生涯は。決して名声嘖々たるものなどではありませんでした。慰めと希望をもたらそうとしながら、対立と嫉妬、羨望、流言飛語に曝されていました。絶えず迫り来る人々の求めに応えようとする日々でした。祈りの時間すら削らざるを得ませんでした。一息入れる、休息する、そうしたことは見られません。

 

それは、スピードアップされ、効率を求める現代社会。その中を生きる私たちが経験するものでもあります。「いやし」という言葉が良く用いられるようになりました。癒やしがなくて、癒やしを求めている時代であることを表しています。安らぎがないのです。

 

墓は主イエスにとっても、安息の場でした。死と埋葬は、この安息に連なることです。