2013年11月24日日曜日

受胎告知


[聖書]ルカ1:2638
[交読詩編]89:20~30、
[讃美歌]Ⅱ編144、讃美歌21;386、175、練習246(旧101)

説教の初めに言い訳をするな、と教えられました。そうするつもりはありません。
ただ、私たちはひとつの教会です。事情は共有しておきたい、と願っています。

厚別教会の講壇をお預かりするようになって、説教の計画を数ヶ月前に作成するようにしてきました。実際は三ヶ月間でしょうか。二ヶ月が終わると、残るひと月の先、二ヶ月間を補充作成する形になります。現在進行中のものは、10月中ごろに、11月、12月、そして1月はじめまでの予定をきめています。
113日聖徒の日(永眠者記念日)《主はわたしの羊飼い》詩編23:1~6、
1110日《テオフィロさまに献呈》ルカ1:1~4、
1117日《祭司ザカリアは老人》ルカ1:5~20、
讃美歌8、464、78、交読詩編77:5~16、
交換講壇、持田の説教題《恵みを与える神》ヤコブ4:1~10、
讃美歌21;481(旧;259)

簡単に申し上げましょう。予定表に交換講壇のことを書き込んでいなかったために、17日の説教が欠落しました。せっかくルカ福音書を連続して読んで行こう、と考えたことです。その部分も含むように、今朝の説教を考えています。

福音書記者ルカは、献呈の辞を含む序文に続いて、その本文を先ず、祭司ザカリアへの御使いの現われをもって始めます。

当時の祭司の生活、神殿での働きは年一度、一週間

その他の時の住処、近辺の村々に、ザカリアは、組の人々から離れた所にすんでいたようだ。推測は他にもなされる。妻は、アロン家の娘。名門の名を残すことが期待されてきた。アロンはモーセの兄、口が重いことを自認するモーセの代わりに語る人。神の言葉を語る人。イスラエルでは、アロン系の祭司とレビの部族の祭司が重んぜられました。

 

直系男子が跡継ぎになるため、この時代、その数は二万人以上とも言われます。彼らは24の組に分けられ、年に二回? 一週間の務めが割り当てられました。過ぎ越し、五旬節、仮庵の三大祭には、全部の祭司が務めにつきました。香を焚く係りは、大事な務めとされ、多くの者は生涯に一度でも勤めたいものだ、と願いました。

 

祭司は、ユダヤ人の純粋な血筋の女性とだけ結婚を許可されました。中でもアロン家の血筋の女性は、他の誰よりも望ましく考えられていました。それだけに優秀な男子が選ばれ、血筋を継承する男の子の誕生が期待されました。

 

しかしその期待も空しく、すでに老齢となり、望みは絶えた状況。

二人は、支え合い、慰め合いながら、神の御旨に従い、非の打ち所のない歩みを続けています。それにもかかわらず、この二人に対する村人の目は、たいそう厳しく感じられていたようです。25節から。そのことを知らされます。

「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 

 前に戻りますが、祭司ザカリアは、神殿で天使ガブリエルから驚くべきことを聞いたとき、それを信じることができませんでした。私たち夫婦は、共に歳を取り、そのようなことが起きるはずはありません。

これを読むと、いつもアブラハムとその妻サラのことを思い出します。創世記181112

さてアブラハムとサラとは歳が進み、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った。『わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか』。

天使ガブリエルは、この旧約時代の族長夫婦と同じ反応に対し、ザカリアが何も語ることが出来ないようにします。神殿の中で何が起きたか、知らせることが出来ません。

外にいた人々は、何事が起きたか、推測することになります。

やがて生まれてくる男の子、その名はヨハネ。イエスと親戚で、半年ほど年長者となります。一般的には、洗礼者ヨハネと呼びます。

 

『受胎告知』は、ナザレの村里に住む娘マリアのもとに伝えられたことを指しています。彼女は、ダビデ家の継承者ヨセフの婚約者です。まだ結婚状態ではありません。

ギリシャ語ではパルセノス、処女、未婚の女、おとめ、少女、

 

同様のことは、マリアの親戚の女エリサベトにも与えられていました。

実際は、神殿の祭司として職務を執行中のザカリアに告知されました。

『受胎告知』は、芸術家の感性を刺激するようです。『絵伝イエス・キリスト』という題の本があります。何枚もの絵が紹介されています。すべてマリアへのみ告げです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フラ・アンジェリーコ、その他。

『聖書人名辞典』では、ザカリアの絵があることを記しますが、エリザベトと並んだものや、洗礼者ヨハネの誕生が主題となっていて、『み告げ』ではありません。

 

大変美しい絵画です。実際の出来事は、あのように美しく、素晴らしいことだったのでしょうか。あの頃、ユダヤの男子は18歳から20歳、女性は134歳が適齢期、半年ないし一年の婚約期間が置かれるのが普通でしたが、婚約者たちは法的にすでに夫婦とみなされていました。

従って婚約解消には、離婚と同じ手続きが必要であり、婚約中に相手を裏切るような性的不道徳が行われると、姦通として死刑が科されました。

そうです。この受胎告知には、死の影がちらついています。輝くような知らせに見えて、この社会内では、決して喜ぶことの出来ないことなのです。38節、マリアの言葉は、絶望的な状況にもかかわらず語られたマリアの純粋な信仰です。

 

受胎告知を受けたマリアは、大変敬虔な態度で「お言葉どおり、この身になりますように」と応えています。34節、ここには、異なるものもあったことが示されます。不安と懐疑です。当然あるはずのものです。

その故にこそ、マリアに動揺があったからこそ、エリザベトにも同様の告知があったことと、すでに六ヶ月に入っていることが示されます。

人間が当然抱く不安と懐疑、動揺を鎮めるものは、神の言葉の確実性です。

 

福音書記者たちは、常識破りで不合理な受胎告知、男女間の交渉抜きの懐妊という着想を何処から得たのでしょうか。世界の諸国・諸民族の神話・伝説では英雄誕生物語があります。多くの場合、神々と人間との性的交渉を前提としています。「神聖婚」ヒエロ・ガモスという考えです。しかし、福音書の受胎告知には、いかなる形でも、男女間の性的関係が排除されています。

ユダヤ人にとって、唯一の神は、完全に人間を超越するもので、そのような神と人間との性的交渉などは、考えることは出来ません。とりわけ、ガリラヤのナザレという保守的な地方の人々にとって、女性が正規の手続きを経ないで妊娠し出産することは、恥ずべきこと、全く不法なことであり、罪悪視されていました。産まれてくる子供も、神の祝福を得ていない、と考えられたのです。

 

 福音書記者たちは、このような非合理的、非常識なこと、信じがたいことを何故大事な福音書に書き込んだのでしょうか。取り除く機会もあったことでしょう。

 

削除しなかったのは、彼らが、この出来事をよく知っていたからに違いありません。

この出来事、降誕にかかわる物語を、よく聞いてきたのでしょう。そしてその結果を見て、聞いて、堅く信じていたのです。「神にできないことは何一つない」。

 

 もうひとつの問題を感じてきました。それは、この記事は何処から来たのだろうか、ということです。ルカ独自の資料です。ルカが、行伝166以下にあるマケドニア人の医者で、その地方の教会のメンバーであるなら、このような情報を何処から得たのでしょうか。

パウロの同行者としての生活の中で、とするならパウロはこれを何処から得たのか。そもそもルカ独自の資料は何処で、何から作られたのでしょう。疑問は限りなく続きます。

最後は、マリアその人に帰するでしょう。

 マリアは、たいへん聡明な、考え深い人、純粋な信仰者だったようです。さまざまな出来事も胸のうちに収めて長い年月を過ごす。結果が回答となって現れたとき初めて周囲と分かち合う。

受胎告知もそのようにして長い年月を過ごし、十字架と甦りの後、初めて人々に語り、やがて教会の信仰になって行ったのでしょう。

 

 最近、マリアは不良少女だった。ローマ軍兵士と遊び、その結果生まれたのがイエスだ。

このような主張が見られます。お好きなように言いなさい。言論は自由ですから。しかし、それを聞いた人は、何か得るものがありますか。

 

 私たちは、すでにイエスの福音が、貧しい者、弱い者、低い者、病める者に向けられていることを知っています。それでは豊かな者、力ある者、壮健な者は如何なのでしょうか。

イエスの福音にはその居場所がないのでしょうか。彼らは、自らを正しい者、見ている者、義人とする限りイエスとは無縁のままでしょう。力の限りを知り、人々の冷たい眼差しを知り、排除されて居場所のなさを知るならば、イエスの福音の中に居場所を見出すことが出来ます。

 

アロン系の祭司の娘エリザベト、その連れ合いザカリア。

ダビデ王家の血筋を引くヨセフといいなずけの妻マリア。

輝かしい名門の血を受け継ぎながら、苦しみを知りました。悲しみを、嘲りを身に負いました。その故に彼らは、福音の初めに所を得ました。居場所を与えられたのです。

私は名門でもなければ、有能、有力な者でもありませんが、自分の居場所を見出すことができないとき、聖書の中に、イエス・キリストの中にそれを見出すことが出来、心を静めることが出来ます。新しい力を得たことを知りました。そして、感謝して祈ることが出来ます。ご一緒に祈りましょう。