2013年12月1日日曜日

マリアと親類のエリザベト

[聖書]ルカ121253945、 
[讃美歌21]231,246,431、
[交読詩編]82:1~8、

 

 今日は121日、アドベント第一主日です。2013年も残るところひと月。そして、教会の暦は、今日から始まります。一年一年、同じように過ぎて行きます。

昨年1216日、《祝福された女》と題して、ルカ1520と旧約で説教していました。

今年は、ルカ福音書を連続して読もう、と考えました。昨年の説教の内容は、覚えていません。この時期はやはり、マタイ1章、ルカ1章を読まなければならないようです。

 

 第1章は、14を序文として、次のように構成されます。

1525、ヨハネ誕生の告知

12638、イエス誕生の告知《受胎告知》

13966、エリサベトとマリアの出会い、そしてヨハネの誕生

16780、ザカリアの予言

ここには、二つの告知があり、母になる二人の女性がいます。この二つの場面、事柄は二人が出会うことによって、一つに結び付けられます。さまざまな所で結び付けられることになる予感がします。今は分かりません。

 

祭司ザカリアは、年に一度の神殿における大事な務めを果たしていました。その最中に、主の天使が出現します。天使ガブリエルは告げます。

「あなたの妻エリサベトは、男の子を産みます。ヨハネと名付けなさい。」

この夫婦は、すでに、子をなすことは出来ない高齢、老齢になっています。この二人に対するこの告知、理解できない、信じることも出来ない。聞いたザカリアは、当然の対応を示します。ガブリエルは、信じなかったから、あなたは、子供が産まれるまで話すことが出来なくなります。

 

同様のことは、旧約の時代、アブラハムとサラの上に起きました。創世記1811以下です。この夫婦、すでに老齢となり、子をもうけることはあり得ない、と覚悟し、諦めています。人間的に考えるなら、もはや跡継ぎを得ることはできないので、他のところから養子を迎えよう、と考えていた二人でした。あるいは他の女から子を得ようとも考えました。アブラハムは、このことにおいて可能であったようです。サラは不可能だったようです。

アブラハムとサラは、三人の人が一年後の出産を予言した時、二人はそれぞれ笑います。この問答は、なかなか面白いものがあります。じっくり読み返してみてください。

 

それから、創世記21章になります。予言は実現します。そこでサラは言います。

「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう。」

生まれてきた男の子、イサクと名付けられました。それは、『笑い』を意味しています。

どのような「笑い」でしょうか。

神の予言を「笑った」ことを記憶する意味か、神が喜びを与えてくださった子とか、多くのものが喜びを分かち合ったことか、すべてを含む深い意味であろうかと考えています。

 

天地創造において無から有を呼び出だしたもうた神は、不可能を可能とする、お方です。

その故に、この二人にはイサクをお与えになり、アブラハムの血筋として祝福されました。

 

祭司ザカリア、彼はすでに、妻エリサベトに子どもを与える力を失っていました。エリサベトも全く同じでした。アブラハムの時にも、語られていたことですが、子なくして長寿を全うすることは、決して喜ばしいことではありませんでした。子どものいない夫婦は、周囲の人々の侮蔑的な眼差しにさらされたようです。子どもがいることは、神の祝福に与っていること。子どもがいないことは、神の祝福がその家から離れてしまったこと、祝福の継承者がいないこと、などと考えられたようです。

 

通常、祭司は、神殿における務めに当たる時だけ、神殿で暮らします。それ以外の長い時間は、エルサレム周辺の村々の自宅で生活しました。連絡の利便性を求めて、ひとつの組毎に纏まって暮らしたことでしょう。しかしザカリアは如何でしょうか。親しいはずの仲間の家族の目を避けて、知る人も居ないようなところ、少しばかり遠い所に住んだように感じられます。この寂しさの感じられる祭司夫婦の暮らしに、光が射して来ます。一年が短く感じられる年齢ですが、予言を聞いてからの毎日は、長くも感じられたでしょう。

五ヶ月が経った頃、エリサベトはようやく出産を確信することが出来たのでしょう。

25節、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」

 

 一方、ガリラヤの町ナザレに住むマリアのもとを、天使ガブリエルが訪れ、その受胎を告知します。今私たちは、輝きに満ちた栄光の出来事、と感じるでしょう。

しかし、そのときのマリアの心は如何なものだったでしょうか。

マリアは、神に愛され、思慮深く、従順で、信仰深く、神を崇め、ユダヤ教の律法と信仰に忠実です。それなのになぜ、彼女が父親なしで母になるのでしょうか。

ユダヤの掟は、父親を知らない子どもの母になることは、不法としました。処罰される罪。

マリアの不安、恐れ。闇に閉ざされるような状況に違いありません。

そんなことが本当に自分の身に起きるのだろうか、不安、疑いの闇。

そんなマリアに光が投じられます。それが親戚のエリサベトも、ということです。

 

36節、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」

親類、といってもそれほど近しい関係ではなかったようです。ルネッサンスの画家たちは、幼児期のヨハネとイエスが、一緒に遊んでいる姿をキャンバスに残しました。しかし聖書はそのことには、何一つ触れていません。互いの居住地の距離や、ヨハネとエッセネ派との関係など、色々考えるべきことがあります。

 

 エリサベトは、アロンの家系の娘ですが、結婚してから子どもが出来ない、と言うことでずいぶん辛い思いをしてきたことでしょう。肩身の狭い思いをしてきました。

出産が確実になって行く中で、そうした思いから解放されてきました。

マリアが訪ねてきてくれたことで、二人は共に、主なる神のお取り計らいであることを深く確かめ、讃美します。揺れ動く二人の心のために、神は動くことのない徴を用意してくださいました。

 

牧師になって5年目、ある日曜日、礼拝前に考えました。今日の献金どうしようか。

自分で決めてある献金額を守ったら、残りでは、一日食べられないぞ。でも神様との約束だろう。守ることに決めました。

最後の頌栄、玄関前に郵便配達の自転車。日曜なのに。

終わって、皆さんが帰る前に会計役員が、書留を持ってきました。居なくなってから開けました。1週間の食費に当たるほどのお札が入っていました。「先生のことが気になって」

これが私の一つの原点です。自分のことを心配する時も、神様の恵みを思い出しなさい。

確かな徴を戴いています。

 

 

人間が考えること、行うことには間違いもあり、失敗もあり、不確実で、信頼に値しません。そこには不安、失望、動揺、更に憎悪すらあります。

私たちは、そうした中で視線を人間から、神に向けることが出来ます。絶望や不信のさなかに神を仰ぎなさい。そうするなら望みを得ることができるでしょう。

 

クリスマスに引き起こされることは、実に驚異的なことです。闇の中に大きな光が投じられるのですから。あるいは、光に照らされることなどない、と考えていた人々が、突然、光のもとに引き出されるのですから。クリスマスにうたわれる歌の多くは、陽気で楽しいものです。さまざまな楽器を奏でながらにぎやかにうたい踊ります。これがクリスマスキャロルです。中には、暗く重い楽曲もあります。そうした心の状態の人と共になるためです。悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣く。そして喜ぶ者と共に喜ぶクリスマス。