2013年12月29日日曜日

人々に知らせた

[聖 書]ルカ2821
[讃美歌]21-194、旧-74、21-268、

 

11月に江別教会と交換講壇を致しました。そのとき週報を頂き、拝見しました。

竹井先生は、小樽教会にいた時の慣わしを、ずいぶん残していらっしゃるようです。

その一つが、教会暦を用いた各週の呼び方です。降誕節のような呼び方です。

教団が棄ててしまった古い呼び方を、ローズンゲンを採用し、利用しています。はるかに多くの教会、教派が用いているからです。プロテスタント諸教派の伝統を共有したい、と願います。とりわけ三位一体主日を用いておられました。教団の出版物では、聖霊降臨節となってしまいました。

私も古い教会暦を用います。私は、ローズンゲンには馴染みがありません。そこで、自分なりに週数を数えて、計算し、割り出しています。竹井先生のほうが、はるかに合理的、効率的です。

 江別教会では、もう一つ古いものを用いています。古い教会行事です。

たとえば、九月第一主日は、振起日・総員礼拝日、十二月最終主日は歳晩礼拝と呼び、31日夜には、歳晩祈祷会を行う。一月一日は、元旦礼拝。第一主日を新年礼拝、その週には初週祈祷会を行う。こうした慣わしは、異教社会で伝道した明治期の宣教師たちが、日本社会の慣習から日本人信徒を守るために考え出したものでしょう。

 

 

本日は、天使の羊飼いたちへの告知の場面、割礼と命名の場面の記事を読みました。

羊飼いの礼拝、天軍讃美、宮詣などとも呼ばれる事のある有名な箇所です。順に読んで行きましょう。

 

「ベツレヘム」、エルサレムの南7キロ。ナザレからは120km。一里・四キロ・一時間、一日8時間なら36km。四日間の旅路。5時間なら20キロで6日間。

その意味は「パンの場所」、ダビデの出身地、ラケルの墓(ラマト・ラヘル)があり、ラテン(ローマ、西方)、ギリシャ(正教、東方)、アルメニア(コプト?)各教派の僧院に囲まれるように聖誕教会が建っています。

また、救い主の預言で知られます(ミカ5:1)。

エフラタのベツレヘムよ  お前はユダの氏族の中でいと小さき者。

お前の中から、わたしのために  イスラエルを治める者が出る。・・・

彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。

彼らは安らかに住まう。  いまや、彼は大いなる者となり  

その力が地の果てに及ぶからだ。  彼こそ、まさしく平和である。」

 

10節、10節で、天使は羊飼いたちに言いました。

羊飼いたち、彼らの中から王が生まれた。古典ギリシャの時代。ペルシャ。ダビデも。

しかし、この時代には、その栄光は、すでに彼らの上にはなかった。

貧しく、身分は低い。そして粗野かもしれないが正直であり、熱い気性の羊飼い。彼らの仕事は危険に満ちていた。託せられた弱い羊たちを守るためには、命を懸ける準備が出来ている人たちだった。そのためには、モーセ律法を一点一画までも守ることは断念せざるを得なかった人たち。

 

何ら誇るものを持っていない故に、彼らは選ばれました。

神の独り子イエスにお目にかかり、讃美するために。彼らは召し出だされました。

世の中には、知恵ある者、賢い人、有能な人はいくらもいます。選ばれたのは、彼らではありません。蔑まれ、軽視され、侮られていた羊飼いたちが選ばれました。

 

彼らが招かれたのは、神の国の招待客名簿にある貧しい者、体の不自由な者、目の見えない者、足の不自由な者の中に彼らが属しているからです(ルカ141314)。

そして、その故に、羊飼いにして真の王であったダビデに結び付けられています。

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

 

天使の最初の言葉は「恐れるな」。

これは、降誕物語全体に流れ、響き、轟きわたる言葉です。恐れるべきことがなければ、この言葉は不要です。恐るべきことが充満しているからこそ語られます。私たちが生きる現代と2000年昔とをつなぐ言葉です。

この言葉によって、羊飼いたちの時代と私たちの現代が、共に恐るべき状況に置かれていることが露わになります。

メー フォベイセ、フォボス、フォブーマイ恐ろしい、畏怖する、こわがる、

 

羊飼いたちは、出かけました。羊はどうしたのでしょうか。放牧地の中に、夜の間、羊を護るための囲いがあり、そこに残しておいたかもしれません。連れて行った、とは考えられません。この御告げは、すべての日常の事よりも大事である、と感じられました。

したがって私たちは、福音を告知し、福音を聞く礼拝を重んじます。自分のその時々のご都合によって変更したりしません。

 

「民全体に与えられる大きな喜び」は、与えられた仕事にも増して重要なことです。

私たちは、多くのものによって、捉えられています。聖書は、悪霊に憑かれている、と語ります。たいていは心身の病気です。原因も治療法も分からない時、古代人は悪霊の働き、としました。独裁者の恣意的な決断によって、人生が全く変わってしまう事もあります。

政治、経済、法律、教育、医療、その他多くのものが、私たちひとりびとりに関わり、支配拘束し、人生に干渉してきました。多くの悲しみが生まれました。救いとは、私たちを拘束・支配する諸々の力からの解放です。癒し・解放・救いは同義語です。大きな喜びです。福音書記者も、そのことを感じ取って、羊の事には触れません。関心を寄せません。

 

14節は、天軍讃美です。

『いと高き所には栄光、神にあれ、  地には平和、御心に適う人にあれ。』

これは、179の預言の成就を先取りしているようです。

『暗闇と死の陰に座しているものたちを照らし、  我らの歩みを平和の道に導く。』

時代の戦いと困窮のさなかで平和に取り囲まれているのです。

19391225日、バーゼルでトゥルナイゼンが説教。ミュンスター教会

第二次世界大戦は、193991日、ドイツ軍がポーランドへ侵入したことによって、始まったとされる。その直前823日、秘密条約を持つ独ソ不可侵条約が締結されている。

1940年にノルウエー、ベネルックス、フランス等を次々に攻略。戦火は拡大され、全ヨーロッパが暗澹たる空気に包まれた。

 

さまざまな伝説を、優れた絵画・芸術をいっとき、忘れようではありませんか。福音書に書かれているのは、ごくごく貧しい普通の若夫婦の出産の物語です。何の飾りもなく、必要と考えられる照明器具さえなく、忙しく立ち働く人々の姿さえありません。ルネッサンスの輝きはどこにもありません。クラドックは書いています。

「厩には何の飾りもなかった。しかし、神の栄光がこの物語には溢れている。」

御使いガブリエルの言葉に聞き従ったマリア、彼女を守り、ベツレヘムへ伴ってきたヨセフ。この二人が、この家畜小屋にいる、ということは、まさに奇跡です。ここには神の栄光だけが輝き、平安が満ちています。

 

イエスと命名します。ヨシュアは「救い」を意味する。

ギリシャ語、イエスースは「ヨシュア」と「イエス」の両方を指し、ヘブライ語の「ヤハウェの救い」の意ともとれます。

何よりもマリアは、懐胎告知がされたときの敬虔な信仰。御旨に対する従順さを持っている事をこの名によって思い出しているだろう。

 

八日目になされた割礼。命名と一体となり、唯一の神ヤハウェの民として登録されました。マリアとヨセフ、彼らは、モーセの律法に従順なユダヤ教の中でももっとも厳格な人々の一人であることを示しています。嬰児イエスも、このユダヤ人のひとりとなりました。

御旨に対する従順さが示されます。

 

ルカは、この降誕物語によって何を伝えようとしているのでしょうか。

神の言葉、計画、御旨、秩序は成就する、ということです。

そのためには無神、反神的な国家権力も、人間も神によって用いられます。

 

17節では、羊飼いたちが、「幼子について、天使が話してくれたことを人々に知らせ」ます。更に、天使の御告げは、そのまま眼前に繰り広げられた事、いや、それ以上だったことを。メシアが誕生された、と告げた事でしょう。しかし、それにしては、暗い、惨めな光景だった事も忘れずに語ったでしょう。家畜小屋、飼い葉おけ、布切れにくるまれていた。普通の幼子以上に、貧しく、居場所のない状態でした。

真理は、このように、ごく自然に、順次伝えられるものです。

2000年にわたって伝えられてきた、ということだけでも、これが真理である証拠です。

 

 伝える人がいます。伝えられた人、聞いた人は、伝える者になり、語る者になります。

こうして教会は生まれ、成長し続けてきました。教会はキリストの福音を証言する者たちの群れです。どんな時代であろうと、どのような場所であろうと、恐れるな、と告げられます。励まされ、恐れることなくクリスマスのおとずれ・福音を伝え続けましょう。