2013年12月8日日曜日

マリアの讃歌


[聖書]ルカ14656
[讃美歌]231,175,432、
[交読詩編]19:8~11、

 12月に入り第二主日となりました。早いものです。
2日で塔屋の補修工事が終わりました。その工事に来てくれた人とおしゃべりをしました。
前週の雪の名残を見ながら。「雪があって、寒かったでしょう」
「たいしたことありません。白いものがあると北海道って感じ、ホッとしますよ。」
60歳代の前半ぐらいの年輩の方でした。道産子なのでしょう。勿論スキーもなさるそうです。確か28日・木曜日に雪が降ったはずですが、そのとき、私も安心しました。
落ちてくる白いものを見ながら、呟いていました。
「これでよし、これでいいんだ。この白いもの、雪と氷が北海道の冬なんだから。もっと、もっと、降れ、降れ。」
余り降ってくれません。それでも路面は濡れているし、教会の外はぬかるんでいるので、たいていは長靴を使っています。いつでも降ってください、という姿勢です。
こうした自分勝手な願いは、聞かれないでしょう。ここまでは土曜日午前中に書きました。
明日にかけて、雪だるま印が出ています。

さて本日は、《マリアの讃歌》、場面は、139以降のエリサベトの家。親戚の娘マリアが訪ねてきたところです。前回の部分をもう一度。
38節「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
はしため、仕える者であることの認識、同時に主なる方への信仰告白です。
この主に対し従順であることは、当然です。

辛い、苦しいことであっても、主の御心をその身に引き受けよう、それがマリアの信仰です。それに対して、主なる神は、聖意実現の確証をお与えになります。それが親戚の女エリサベトの身の上に起こっていることでした。マリアは、み言葉を疑っているためではなく、神の恵みとして与えられた徴を見ようとして、ユダの町へ向かいます。

この場面は、多くの芸術家の創作意欲を刺激し、多くの名作を生み出させました。
この讃歌は、今日『マグニフィカト』として知られています。

ラテン語訳聖書の冒頭の句(Magnificat anima mea Dominum)を略してdas Magnificatと呼んでいます。

 

マリアは、神に愛され、思慮深く、従順で、信仰深く、神を崇め、ユダヤ教の律法と信仰に忠実な女性です。これは、先週申し上げました。
小塩節先生は、マリアの讃歌について、いろいろなことを書いておられます。
「全身全霊をもって捧げる感謝の祈りは、このまま古いユダヤのメロディーに合わせてうたえば、見事な歌となる。」
小塩先生は、小塩力牧師の息子として佐世保に生まれる。旧制松本高校(ドクトル・マンボウは先輩)、東京大学に学び、国際基督教大学、中央大学教授、在職のままドイツ大使館公使、ケルン日本館館長を勤める。日独の文化交流に顕著な功績あり、同国政府により叙勲されている。
井草教会に所属し、ひこばえ幼稚園園長。先生はドイツ文学を専攻されていますが、音楽にもお詳しくていらっしゃる。バッハ、モーツアルト、シューベルトを愛される。
古いヘブライのメロディーをご存知なのでしょう。

マリアという名は、モーセの姉ミリアムの別称で、『神に愛される者』という意味です。
「人は、与えられた名前に一生かけて近づいて行き、ついには一つになるものである。ナザレのマリアムも、悲痛と栄光の生涯を通して人類の『マリア』となって行ったのである。」

人は誰でも愛されて愛を知るものです。私たちは、ローマ教会のようにマリアさんを拝むことはしません。しかし、真実の信仰を貫いた女性として敬愛することは致します。
さまざまな伝説を排して、聖書に記されたマリアの姿、生き方は、確かな尊敬の念を引き起こします。しかし決して礼拝の対象ではないし、仲保・媒介者でもありません。
主イエスの名によって祈りますが、聖母マリアの名によって祈ることはしません。
私たちには、聖徒たちの余分な功徳、という考えはありません。

どれほど人間的に見て、素晴らしい人格であるとしても、それは、選ばれた理由ではありません。私たちには決して分からない、知ることのできない、神のご計画なのです。
もし資格が必要であるなら、「身分の低い、このはしため」であるということだけです。
ギリシャ語では、ほめたたえる事を、ホモロゲオー(動詞)という言葉で表現します。

ホモロゴスが元の形。ひとつの言葉の、ひとつの心の、が元来の意味です。同じ心になって同じ言葉を語る、相手の言ったことに対して同意を言い表す。約束する、告白する、公言する、ほめたたえる、などと訳され、意味されるようになりました。名詞形は、ホモロギア、告白、言い表すことを意味します。とりわけ、ナザレのイエスが神の子・キリストであることを受け入れ、告白することを指すようになりました。(Ⅰテモテ61213

讃美の歌は、同時にマリアの告白、マリアの祈りです。
讃美の歌は、神がマリアに与えた恵みの故に神をたたえることに始まり、選ばれた民の救いのためになして下さった神の業の豊かさを讃えることで、その頂点に達します。
この讃美は、マリアの『私は主のはしためです』という告白を更に詳細に述べたものです。

この讃美に関して、これをエリサベトのものとし、後にマリアの口を通して語られたものにしたのだ、という解釈がある時期なされました。今日では、内容から、マリアのものと理解されています。48節は、明らかに、救い主の母として身分低き者が高められたことを讃えています。もしエリサベトであれば、子どもがない、という辱めの除去を讃美するでしょう。このことは125に語られています。

またこの讃美には原型があることも指摘されています。サムエル記上21以下にある『ハンナの祈り』がそれです。ラマタイム・ゾピムの人エルカナ、その妻ハンナ。ハンナには子供が産まれなかった。祭司エリが執り成し、男の子が与えられる。その名前がサムエル。
この子が乳離れすると、シロにある宮へ連れて行き、主に捧げます。そのときの祈り。
どうぞ各自でお読みください。

母となることは、正常な場合であれば、心踊る歓びとなるでしょう。
しかし、マリアの場合、処刑される可能性もある恐ろしいことでした。
それにもかかわらず、マリアは、主を信じました。み言葉をそのまま受け入れました。
信じ難いときにこそ真の信仰が見えてきます。
神は、すでに行った事柄に関して称賛されています。
私は文法は苦手です。それでも、このところのギリシャ語動詞の文法は、未来時制ではなく、過去時制になっている、と学びました。

ある学者は(クラドック、61ページ)は次のように記します。
「動詞の過去時制(アオリスト)は、時間に関係のない真実を表しているのです。
そこでは、過去も現在も、未来も区別されないのだ。しかし、私たちは過去時制を、あたかもそのことがすでに起こっているかのような自信と確信を表現する方法としても、考えるべきなのである。神は約束されたことをなすのだと(マリアが)確信しているからこそ、それは成就された事実として宣言されるのである。」

この讃歌で強調されるべきものは、5253節にあります。
ある註解者(レングスドルフ)は、簡潔に記します。

「それ故、神が王として支配する終わりのときには、これまでの基準は完全に打ち砕かれ、これまでの価値は完全に消滅する。」

マリアは、権力あるものを低め、低い地位にあるものを高める神、そして飢えたものを満たし、富んだものを手ぶらで返す神を歌っています。ここには、神の最後の審判の特質がある、と言ってよろしいでしょう。つまり、権力を持ち、富んでいる者は、弱く貧しい者と場を入れ替わる、ということなのです。そしてこの終末的な逆転は、マリアの選びにおいて、始められました。聖書に基づく福音信仰の革命的性格。

38節をもう一度、思い出しましょう。「お言葉どおり」、これが実に難しい。
私たちも信仰者を自認しています。主日礼拝の度ごとに信仰告白をしています。あなたこそ私の主です、と。ところが、自分にとって不都合なことが起これば、それは困る。神は全能であるから、私の都合に合うよう変更できるはずだ、と考えます。わたしがすべての都合を捨てて、主なるお方の御心に従うのではなく、主は私の都合に合わせて、主が私に仕えることを要求するのです。

70年前、アジア、ヨーロッパは戦争のさ中にいました。その中で、ナチドイツは、600万のユダヤ人を、強制収容所において最終処分しました。戦後、ジェノサイトが明らかになるにつれ、何故ユダヤ人たちは従順に殺されていったのか、と批判する者たちが出てきました。ユダヤ人の信仰は、自分にとって不都合なことでも、神に従う所にありました。現代のユダヤ人は、不都合な方向が現実とならないよう、事前に闘おうとしているようです。神を従わせよう、とするものではありません。
私たちは、マリアの讃歌によって、まことの信仰告白を示され、問いかけられています。
「あなたは、信仰を告白していますか。その告白を共に生きましょう。」
正しく応える時、主の語降誕を正しく迎えることが出来ます。

感謝して祈ります。