2013年12月15日日曜日

ヨハネの誕生とザカリアの預言


[聖書]ルカ15780
[讃美歌]231,182,247,78、
[交読詩編]85:2~14、

昨日は、明星幼稚園のクリスマス礼拝。
本日午後には、こひつじ会のクリスマス礼拝が行われます。
友人からのメールに、母教会の牧師が、この時期によく言っていた言葉が書かれていました。「牧師にとってクリスマスは、苦しみます、です」と。
私も、その言葉を聴きました。しっかり記憶しています。ひとりの説教者として、共感せざるを得ません。「そうだ、そうだ、クリスマス説教を生み出す苦しみを経験しているぞ」

それでも、決して同じではありません。資質・能力が違います。私のほうが、もっともっと苦しんでいるはずです。

それでも私は考えます。説教作りにどれほど苦しんでも、産み出すことに困難を感じても、『クリスマスは苦しみます』と言うことだけはしないようにしよう。御子イエスの受肉降誕の喜びのときを汚すことになる。喜びの福音は、苦しめば苦しむほどみ栄えの輝きに満たされるのだから、感謝しよう。時に苦しみを語らざるを得ないことがあっても、語れば語るほど、喜びになることを語ろう。証しよう、それが私の宣教だ。

これは、私だけのことではありません。アドベント・ランチのために土曜日に準備をしてくださる方がいます。大変だろうな、と思います。しかしその方は、楽しそうに働いています。その姿を拝見してきました。救われた喜び、主が見ていてくださっている確信があれば、苦しみ、などと言わず、喜び感謝するでしょう。

母教会の牧師は、はるかに高い能力をもって使命を果たし、深い信仰によって多くの人々を指導しました。誤解を恐れ、申し添えます。

本日の聖書は、三部分からなっています。
5766節、誕生、割礼、ヨハネの命名
6779節、ザカリアの「霊感を受けた預言」
80節、ヨハネについての短い叙述。これは、要約と彼の公生涯への移行の役割です。

初めの部分は、ユダヤ文化の慣習と律法とを反映しているようです。親戚や近隣の人々は、誕生の喜びに参加するだけでなく、とりわけそれが、年老いた夫婦の最初の男の子の場合には、その子の命名にも参加していました(ルツ417)。

多くの場合、その家の先祖が用いた名の中から嬰児の名を選びます。ザカリアの選択は、意想外のものだったようです。先祖の中に、この名が見られませんでした。

そうであっても、誕生の事情を背景とし、それを説明する、というもひとつの命名法には適っていました。

 

父となったザカリアは、書き板に「この子の名はヨハネ」と書いて、皆に知らせました。
ザカリアは、この時まで、これ以降も、神のご計画に対し、従順でした。
「ヨハネ」は、エホハナンを短くしたものです。「エホバは恵み深い」、または「エホバの贈り物」を意味します。この誕生は、全く予期していなかったが叶えられた。ヨハネという命名は、その喜びと感謝の表明になっています。
母となったエリサベトも、この名をつけることに賛成しました。

八日目の割礼は、レビ記123に規定されています。
後期ユダヤ教において、命名は、明らかに割礼と結びついています。割礼によって、男子は神の民のメンバーとされたのです。

ザカリアの話す能力の回復は、奇跡と理解された。それによって、彼は神を讃美し、近隣の者たちは、神の力の臨在に相応しい畏れの感覚に満たされました。

第二の部分、6879、ザカリアの霊感による預言は、そのラテン語訳の最初の一語をとって『ベネディクトウス』と呼ばれています。これは二つの部分に分けられます。
前半部分、6875節は、神を讃美する。それは、神がヨハネを送ったことの讃美ではなく、「我らのために救いの角を、僕ダビデの家」から起こしたから、つまりイエスを送ったから神を讃美する、ということです。
これは、旧約の詩編34,67,103,113、と死海文書の収穫の感謝の詩に似ています。

ユダヤ教的な終末の希望は実現され、約束は保持され、アブラハムの契約は覚えられ、すべての敵は神が上げた「救いの角」(神の力を指す。サムエル上210)によって打ち負かされるだろう。

後半部分、7679節は、ヨハネやイエスがこれから何をしようとしているのかということの要約になっている。それは、すでに11517で、み使いによって知らされていたことである。ここでは、マラキ3122324、イザヤ91427からかなりの部分を引用している。

神ご自身が持つ光と平和の世界が、いまや暗黒と戦乱の世界の中に突入しようとしている(マタイ414以下参照)ということです。

第三の部分は、ヨハネの成長に関するもの。
ナジル人サムソン(士師1324)や少年サムエル(サムエル上226)を思い起こさせる。
使徒言行録も、パウロがナジル人の誓願をたてていて、ケンクレヤで髪を切ったように書いています(使徒1818)。
ヨハネのこれからの生活の大部分は隠されています。ヨハネの物語が再開する時、彼は神の国の接近を告げるために登場します。その間,私たちは待っていなければなりません。
ここに、もうひとつの待降・アドベントがあります。

ルカ福音書は、祭司ザカリアとエリサベト、そして二人の子として生まれてくるヨハネに、かなりのスペースを割いています。これは何を意味するのでしょうか。
エリサベトは、142で「聖霊に満たされて声高らかに」言いました。内容は、マリアを称賛、祝福するものです。

ザカリアは、神を讃美し、すべての人に関わるその預言の成就を展望し、その中での我が子の働きを見詰めています。

福音書記者ルカは、ザカリアの出来事を通して、私たちに語りかけています。
神の計画は、聖書に預言されており、それは、確実に成就すること。ヨハネは、その成就の先駆的な徴であること。そして生まれてきたヨハネも先駆そのものであること
彼が指し示すのは、十字架と甦りの主イエス・キリストであること。
人々の賛嘆、驚嘆すら、こうした神の御心に対する憧れと讃美に結び付けられます。

人の子の親となり、親となり続けるとはどのようなことを意味するのだろうか。親業とは、忍耐することと見付けたり、と言った人があるようです。

それを不可能、と思い定めたのでしょうか。産まれてきた子供を次々と棄てたり、殺したりする男女が摘発されています。

自分ひとりだ、と思うとき、感じるとき。親になるということは、とてつもなく困難なことなのです。子どもを棄て、親になり続けることを放棄した人たちは、思慮が足りませんでした。知るべきことを知りませんでした。同時にその知識を与えることができる私たちにも大きな責任があります。肉親のつながりの中で、地域、友人の輪の中で、子どもは育てられ、自分自身も生長し、親になって行くことが可能になるのです。

このような親になろうとする人々と絆を結び、輪をつなぐことは、幼児教育施設に求められる役割と考えてきました。親となることの闇に覆われる人たちの光となることです。

祭司ザカリアとエリサベト。二人は、長い間、闇の中を歩んできました。子供が産まれて、光が見えてきました。ところがそこでも育児の困難さ、という闇が待ちもうけています。

ザカリアは、その闇の向こうを見据えています。光が見えます。

我が子ヨハネは、いと高き方の預言者と呼ばれる。この方こそ、闇を貫く平和の光へと、我々を導く、と確信しています。

祭司の息子ヨハネは、ユダヤの伝統に従うなら、その民族の中で最高に尊崇される祭司職を継承するはずであった。父、ザカリアも母、エリサベトも、それが正しいこととは考えなかったようだ。神から与えられた名を持つヨハネは、神から新たに与えられた職務に就く事になる。そのために備えの期間、待つ時があり、荒野に赴きました。証明するものはありませんが、エッセネ派のクムランの宗団にいた、と信じられています。あの死海写本を保持し、それを隠し、消えていった人々です。そこで、時を待ちました。

闇の彼方に光を見出すことこそ、アドベントに相応しいことです。
混迷の度を加えるこの時代は、主を待ち望むことが許されています。
感謝して祈りましょう。