2014年6月15日日曜日

洗礼者ヨハネ

[聖書]ルカ7:1~12、
[讃美歌21]57,503,535,77、
[交読詩編]97:1~12

7: 20、 John Baptist( AV) 、 小 見 出 し は 、 John The Baptist、 こ れ は 原 文 の 20節 と
同じ。 更にNEVも採用。ヨハネース ホ バプティステース
ヨハネの母エリサベトは、アロン家の娘、イエスの母マリアの親戚の女(ルカ
1:36)。
「あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていた のに、
はや六か月になっています。」
父はエルサレム神殿に勤める祭司ザカリヤ。ユダの山里の町に住んでいたようで
す。
ヨハネは、イエスよりおよそ6ヶ月年長の息子として成人しました。一般に従兄弟
と呼ばれている。成長したヨハネの生活ぶり、その姿は、エッセネ派の宗団のメ
ンバーだったように推測されている。
芸術家の創作意欲を刺激するようで、ダ・ヴィンチを初め多くの作品が残され
ています。
洗礼の場面、アンドレア・デル・ヴェロッキオ(ダ・ヴィンチのお師匠さん)。この
時代、
作品は、工房で製作された。弟子の筆も入っているだろう。
幼児期の二人、『小椅子の聖母』『牧場の聖母』(ラファエロだったと記憶する)。
聖母子像の画家と呼ばれた。
斬首・サロメ、カラヴァッジョ。ギュスターヴ・モロー(ワイルドの戯曲より20年前
の作)
  の作品はとりわけ妖艶なサロメであり、この影響の下、ワイルドは戯曲を書
いたと想定されている。
リヒャルト・シュトラウスは、オペラ『サロメ』を作曲、七色のヴェールの踊りの
場面を大変官能的な美しいものにした。オスカー・ワイルドの戯曲を原作とし
ています。
洗礼者ヨハネ教団由来の資料(ヨハネの誕生物語)を用いたと思われるルカ福音書では、「幼
子(ヨハネ)は・・・人々の前に現れるまで荒野にいた」(ルカ1:80)と記されています。ク
ムラン宗団が「幼児を養子にし、クムラン内部で教育していた」というヨセフスの記述に基
き、洗礼者ヨハネは幼い頃クムランで教育を受け、預言者として登場したのではないか(ジ
ョセフ・A・フィッツマイヤー:The Gospel According to Luke、1981)と言う意見もあります。
クムランの共同体の道徳観念は非常に高く、エジプトの哲学者フィロンが述べているよう
に、病人や老人は共同体の資金で完全に保護され養われます。このような相互扶助は、異国
に囚われた人、身寄りの無い孤児にも及んでいます。禁欲主義が嵩じていささか女性蔑視の
傾向(一人の男に忠実ではないという考えからなのか)があるように感じられます。
獄中のヨハネは、ある日使いを、イエスのもとへ送ります。そして、質問させま
す。
今日の行刑管理から見ると、そんなことが出来るのか、と疑わしくなります。し
かし、マタイも同じことがあったと告げています。ユダヤ風に考えるなら、複数人
が証言するなら、それは真実である、となります。マタイ、ルカ二人の福音書記
者が、別々に証言しました。
更 に 、 当 時 ヨ ハ ネ は 多 く の 人 々 を 惹 き 付 け 、 洗 礼 を 授 け 、 イ ド マ ヤ 人 の 領 主 に
対する果敢な、厳しい批判で拍手喝采を博しました。便宜を図る人がいてもおか
しいとは思いません。これを疑い、否定する積極的な根拠はないでしょう。
この洗礼者ヨハネの出来事は、このところに唐突に出てきた、突然挟まれたよう
に感じられます。ほかのどこでもいいのに無理やりここに置かれた、と言っても良
いでしょう。
時間の経過の中では、いつ起きたことかはっきりしません。その意味では、どこ
におかれていてもよいでしょう。しかしルカにとっては、この流れの中で、ここに
入れなければならなかったのです。
7章 初 め の 二 つ の 出 来 事 、 即 ち 百 卒 長 の 僕 と ナ イ ン の や も め の 息 子 の 生 き 返 り
は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちによって質問したことに対するイエスの応えの
確かさを高め、深める役割を持っています。伏線になっている。
『洗礼者ヨハネに対するイエスのメッセージが語られている次の物語を、あらかじめ指し示す
役割をも持っているのである。それは二つのやり方でなされる。
その一つは、ナインのやもめの息子が生き返ることが、ヨハネに対するイエスの言葉である。
「死者は生き返り」(22節)を確かなものとして支える働きをしている、というものである。
マタイはヨハネに対するイエスのメッセージを記録しているが(マタイ11:2~6)、彼はこの物語よ
り前に、イエスが指導者の娘を生き返らせたことを述べている(マタイ9:18~26)。
ルカはそうはしていない。この指導者の娘の物語はこれより後で語られている(8:40~56)。
それでルカでは、ナインでの死者の生き返りが、ヨハネに伝えられたイエスの活動の要約的な
言葉の準備としての役割を果たしているのである。
二つ目は、この箇所が17節でユダヤに言及していることにより(「イエスについてのこの話は、
ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」)、ヨハネについての次の物語を予示することに
なっている、という点にある。「ガリラヤ」よりも、むしろユダヤに言及するほうが、ユダヤで
宣教していたヨハネに、イエスの噂が届いていたことを推測させるのである。』    クラド
ック、p165
           
ヨ ハ ネ の 質 問 の 意 味 は 何 か 。 ヨ ハ ネ は イ エ ス に 洗 礼 を 授 け た と き の 確 信 を 失
ったのか。
確かに、獄舎での過酷な生活、孤独、虐待、運命の逆転、これらは抱いていた確信
を失わせるに十分なものであろう。希望と信仰も蝕まれる。
ヨハネは、あなたのほかに待つべきなのでしょうか、と質問させたのです。自分の
亡き後、この弟子たちが誰に従うべきか、自学自習させたかった、と考えます。
決して諦める、断念すべきなのか、とは言っていません。
それに対し、あなた方の見たこと、聞いたことをそのまま伝えなさい、と応え
ます。
ヨハネの弟子たちは、イエスの活動そのものを報告できるほど、十分長く滞在して
いるのです。彼らが見たものは、イザヤ書61:1~2の成就そのものでした。
1 神 で あ る 主 の 霊 が 、 わ た し の 上 に あ る 。 主 は わ た し に 油 を そ そ ぎ 、 貧 し い 者 に 良 い 知
ら せ を 伝 え 、 心 の 傷 つ い た 者 を い や す た め に 、 わ た し を 遣 わ さ れ た 。 捕 わ れ 人 に は 解 放
を 、 囚 人 に は 釈 放 を 告 げ 、 2 主 の 恵 み の 年 と 、 わ れ わ れ の 神 の 復 讐 の 日 を 告 げ 、 す べ
て の 悲 し む 者 を 慰 め 、 3 シ オ ン の 悲 し む 者 た ち に 、 灰 の 代 わ り に 頭 の 飾 り を 、 悲 し み
の 代 わ り に 喜 び の 油 を 、 憂 い の 心 の 代 わ り に 賛 美 の 外 套 を 着 け さ せ る た め で あ る 。 彼 ら
は、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
ヨハネの使いが去った後、イエスは群集に向かって話し始められます。
ユダヤの人たちは、憧れと期待を持って、ヨルダン川のヨハネのもとへ行きまし
た。
全員ではなかったけれど、多くの人がヨハネの洗礼を受けました。それは、彼ら
が、風にそよぐ葦を見に行ったのではないことの証でした。
華 や か な 衣 装 を 身 に ま と い 、 贅 沢 暮 ら し を 楽 し む 人 を 見 た い な ら 、 宮 殿 の 入 り
口へ行けばいい。あなた方は知らなかったかもしれないが、預言者を、いや、預
言 者 以 上 の 者 を 見 た の だ 。 彼 は 、 マ ラ キ 書 3: 23で 予 言 さ れ た 、 救 い 主 に 先 立 つ
偉大な預言者なのだ。
あ な た 方 は 、 最 高 に す ば ら し い 、 偉 大 な 人 を 見 た 、 と 知 る べ き だ 。 し か し 、 こ
の偉大さも神の国においては、最小のものとされるだろう。
こ の 主 イ エ ス の 言 葉 を 、 福 音 書 記 者 ル カ は 、 補 足 す べ き だ 、 と 感 じ た の で し
ょう。29,30節を加えました。編集的な加筆になります。
ヨ ハ ネ の 教 え を 聞 い た 民 衆 と 徴 税 人 は 、 神 の 正 し さ を 認 め 、 自 分 た ち の 間 違 い
を 悔 い 改 め る 洗 礼 を 受 け ま し た 。 し か し 、 フ ァ リ サ イ 派 の 人 や 律 法 学 者 た ち
は 、 ヨ ハ ネ か ら 受 け る 洗 礼 を 拒 み 、 罪 の 赦 し を 与 え よ う と の 神 の 御 心 を 拒 絶 し
たのです。
 31節以下によって、このところの隠れた課題が明らかになります。それは神の
民のアイデンティティーです。アイデンティティー、分かりにくい言葉を使って申
し訳ありません。
普通、自己同一性と訳していました。自分が自分であることを証明するものは何
か。
ユダヤ人にとってのアイデンティティーは、割礼と律法です。安息日規定と食物規定
を守ることです。ここでは、食べることが問題となっています。いつ、誰と、何
を食べるか、私たちにとっても大きな問題です今日は父の日、お父さんが家族皆
にご馳走してくれるでしょう。家族のアイデンティティーがかかっています。教会の
アイデンティティーはどこにあるでしょうか。正しい聖晩餐にあります。
 ヨハネは、誰とも一緒の食事はしなかったようです。マルコ1:6
「 ヨ ハ ネ は ら く だ の 毛 衣 を 着 、 腰 に 革 の 帯 を 締 め 、 い な ご と 野 蜜 を 食 べ て い
た 。 」 そ こ で 多 く の 人 々 は 、 「 悪 霊 に 取 り 付 か れ て い る 」 と 言 い 、 イ エ ス が 、
誰とでも、なんでも感謝して食べると、「大食漢で大酒呑みだ。徴税人や罪人の
仲間だ」と言う。
どちらにしても気に入らないのでしょう。今の社会の中でも、それはあり得る
事です。ただそうした場合、自分自身の好悪の情であることをはっきりさせまし
ょう。律法や信仰にかかわらせないでいただきたいものです。
洗礼者ヨハネ、そして救い主キリスト・イエスを受け入れ、正しくその御心を
行 う 者 が い ま す 。 同 時 に 、 自 分 の 立 派 な 考 え を 行 い 、 自 分 の 上 に 称 賛 を 集 め よ
うとする者もいます。
今は区別がつかないかもしれません。それで良い、構わない。やがて、神の知恵
に従っているすべての人によって証明されます。洗礼者ヨハネが証明されているよ
うに。
私たちは、ただきりスト・イエスを仰ぎ見て、学び、道を聞き、歩みを全うしま
しょう。
教会のアイデンティティーは、他のことではなく、ここにあります。