2014年6月22日日曜日

ファリサイ派シモンの家で

[聖書]ルカ7:36~50
[讃美歌21];57,151,515、
[交読詩編]69:17~22

先ほどお読みいただいた聖書の箇所、いろいろお感じになったことがあるだろ
う、と感じます。とりわけ熱心に繰り返し読まれている方は、戸惑われたので
はないでしょうか。 “あれ、マグダラのマリアでしょう。ファリサイ人シモンの家だ
っけ?混乱しちゃう、と感じられたのではないでしょうか。頭にナルドの香油を注
いだと覚えているけど違ったっけ、それにベタニア村じゃなかったっけ ”。そして一
番の違いは、 “この油注ぎは、受難に備えるような時に起こった、と記憶してい
るけどなあ”、と言うことではないでしょうか。
こんなにたくさん違うことが思い出されてくると、並の人間は自分の記憶違
い、と思い込みそうになります。私などは物覚えが悪いんだから、と自分叱りな
がら慌てて、聖書のあちこちをひっくり返します。皆さんはご安心ください。間違
っていません。大丈夫。
 似たようなことが、マタイ26:6以下、マルコ14:3以下、ヨハネ12:1以下に記
されています。ルカ以外の福音書は、いずれも受難の出来事の直前、 6日前に、
ベタニア村で起きたことの報告です。時期がルカとは違います。場所が違いま
す。内容・意味が違います。
聖書の小見出しの下の括弧内に、福音書であれば他の福音書にある同様の記事
(平行記事と呼びます)が示されているものですが、ここでは、『罪深い女を赦
す』とあるだけです。
括弧すら見られません。これは翻訳委員会が、三福音書にある同様の記事と同じ
ではありません、と主張しているのです。私たちは、これを同じ出来事のいまひと
つの報告のように見るよりは、むしろ、いまひとつの出来事の特別な報告、と考
えましょう。
聖書研究ではないのでここまでにします。
ファリサイ派のシモンが、イエスを自宅での会食に招待しました。 11章、 14章
でも、主はファリサイ派の人からの招きを受けておられます。名の売れた人、
話題の的になっている人を食卓に招くことは、善行のひとつに数えられていまし
た。しかも食事の部屋は、公開されていて、誰でもその近くで見聞することが出
来ました。
このシモンは、自立した人格であったようです。自分で考え、何が大切か比較検
討し、選び取ることが出来ました。「ファリサイ」という言葉自体、「分かたれ
た」という意味です。他の多くの者たちと違う生き方をすることが出来る。律
法の知識は豊かで、それを実行するだけの熱意と能力を持っている。他の人の
言葉に引きずられることなく、自分で判断し、それを貫くことが出来るのです。
このファリサイ人は、今日の目で見ればマイペースを貫く人と似ています。
マイペース、自分の考えや生活習慣を、いつでもどこでも貫くこと。貫けるから、
それで良し、自分は正しい、と思い込んで行く。非常に主体的であり、ご尊敬
申し上げるが、周囲の人が同じようにしたらぶつかります。日本人の場合、たいて
いの人は、争うことなしに引くでしょう。ますます増長して行くのを見て、関わ
らないようにするでしょうね。お客様扱いするわけです。私は、牧師として間もな
く半世紀になろうとしますが、自分自身を振り返り、反省することしきりです。
同じようであっても、違いがあります。マイペースは、個人的な基準を大事にし
ています。自分だけの基準であって、周辺とその共有ができていない。自己満足
ファリサイは、その社会の高い基準を厳格に護ろうとしている。
この二つの間では、似ているようでも、実は大変大きな違いがあります。
マイペースは、おそらくその周囲の人々の密かな顰蹙をかっているでしょう。
ファリサイは、敬遠されるかもしれないが、同時に敬意を持って見られます。
しかし、ここに登場するファリサイ派のシモンは、守って当然の高い基準を守
ろうとしません。身分高い人などがおいでになったとき、尊敬される人をお招きし
たときなどには、相応しいマナーがありました。歓迎の口づけをします。頭に香り
の良い油を注ぎます。サンダルを脱がせその足を水で洗います。これは、僕に
させず、主人自らするのが当然と考えられました。それは、その家の主人の客人
への敬愛のしるしなのです。これをしない、と言うことは、考えられないほどの非
礼を働いたことになります。
自立、マイペースにはこうした危険が潜んでいます。気付かない、間違った基準
を持つ。
 ここで大きな出来事が起こります。食卓を前に、寝椅子に横たわるイエスの後
ろから、一人の女性が近寄ります。「罪深い女」と呼ばれています。職業的に、
不特定多数の男に身を任せる女性として知られていたようです。実態は判りませ
ん。
この女性は、イエスの足元に近寄り、この家の主人がしなかったことを果たしま
す。
7:37するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いてお
られることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
38泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の
髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
「香油の入った石膏の壷」、私たちは花瓶のような壷を想像しますが、どうや
ら間違いのようです。女性が首から提げている小さな入れ物だそうです。ここで
はアラバスター、と言う言葉が用いられています。昔、エジプト展を見ました。
アラバスター・雪花石膏で造られた小さな入れ物がたくさん出展されていたことを
思い出します。同じ時に見て印象深かったのが、ラピスラズリです。青い色の
綺麗な石でした
イエスは、これを黙って受け入れられました。
ファリサイ派のシモンは、心の中で言います。「もしこの人が預言者であるなら、自分
にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。口語訳
主イエスは、ここでひとつの譬えを話されます。
500デナリと50デナリを借りた人がいた。金貸しは、返せない二人の借金を帳消し
にしてやった。どちらが、この金貸しを愛するだろうか。シモンは、『帳消しされ
た額が大きいほうです』と答えます。
 これを聞いてイエスは、ファリサイ人シモンに言われます。
『あなたは、客人に対してなすべき当然のことを何一つしてくれなかった。この
人は、それらを、義務でもなく慣わしでもなく、本当の敬意と愛の心でしてくれ
た。多くを赦されたからだ、と分かります。あなたに愛が少ないことは、赦され
る必要のある罪などありません、と考えていることから分かります。』
47節は、この女は多く愛したから赦された、と読むことが出来ます。愛の功
績です。
しかしイエスが語っているのは、決してそうではありません。
『彼女の大いなる愛が、彼女の数多い罪が赦されたことを証明しているのであ
る。』NEB
イエスは、シモンが考えるような預言者ではありません。イエスは罪の赦しを与
える救い主・キリストです。
「安心して行きなさい」、と言われて、この人はどこへ行くのでしょうか。
「罪深い女」と呼ばれているこの人は、罪の中に帰るように求められたのでし
ょうか。
ある人は、そこが彼女の生きる場所、信仰を証しするところです、と語ります。
私にはそのようには考えられません。彼女には、受け入れてくれる場所が必要なの
です。
「よく来ましたね。ここではあなたを歓迎しますよ」と言う教会です。
福音書記者ルカは、使徒言行録も書いています。どうやら彼の関心は、イエスと
出会った後、人々が共に生きる教会にあったようです。どのような教会を作るの
か?
彼女が必要としているのは赦された者の共同体であり、罪人を赦す共同体なので
す。
ファリサイ派の人の家は、この女性を受け入れる所ではありませんでした。
こ の 家 で 、 罪 深 い 女 性 は 、 イ エ ス を 救 い 主 と 信 じ 、 あ ら ん 限 り の 愛 を 捧 げ ま
した。
闇のような家で、この女性は光を出会い、その光を反射しながら、新しい一歩
を踏み出そうとしています。感謝して祈りましょう。