2014年6月29日日曜日

実を結ぶ種

[聖書]ルカ8121
[讃美歌21];57,412,579、
[交読詩編]32:1~7、

 

本日の聖書は、小見出しだけでも六つになります。それぞれがひとつの説教を生み出すだけの内容を持っています。細切れに扱うのではなく、出来るなら、ルカ福音書の文脈の中で、理解したいものです。順次、読んでみましょう。

 

13節、女性たちが宣教活動に参加したことが語られます。

当時のユダヤ教では、律法の教師を支え、援助することは、大きな善行・功徳とされ、勧奨されていました。

ここに記された多くの女性は、身分も地位も高い人であり、経済的に貢献したようです。

ヨハナは、ヘロデ王の家令の妻、ここと2410。スザンナはここだけ。

マグダラのマリアは、七つの悪霊から解放された人物でした。娼婦であったと伝えられます。悪霊憑きは心と体の様々な疾患をもちます。しかし、それがそのまま道徳的・倫理的堕落を起こすわけではありません。女性たちは、自分の自由になる資産を提供しました。

資産を有するものが、それを使う道を見出したことは喜ぶべきことです。

財産も、血筋・家柄もそして能力も神により与えられた恵みと考えます。そして、その有効利用は、私たちに責任があります。与えられたもの全てを感謝して、用い尽くしましょう。そこでは少なからず、社会的・政治的な犠牲を伴うことがあったと考えられます。

ルカは、女性たちに対して好意的な報告をしています。それは、エリサベトとマリアに始まり、使徒言行録全体にわたっています。テサロニケ教会の婦人たちは、言行録174、ベレヤ教会の女性たちは言行録1712、で語られています。

 

母教会の長老・役員の一人。明治学院大学の出身、印刷業、会社経営、

在学中、学生仲間6人で開拓伝道の教会に加わった。肉体労働もやった。賃金獲得。

教会の会堂を建てた。それが、現在の渋谷・山手教会、最初の会堂。その後桜台へ。

自分の仲間は後に神学校へ行き、牧師になった。自分は彼らを経済的に支援することを自分の使命と考え、実業へ進んだ。どちらも献身、と考えます。伝道者になることだけが信仰者の道ではありません。彼は、私たちに、良くこのことを話して聞かせてくれました。

 

次は、415節、種蒔く人のたとえ(パラボレー)になります。

たとえという語は、ギリシャ語ではパラボレー、並んで投げ出されている、を意味します。

英国の学者ドッドの書物が有名です。CHDoddThe Parables of The Kingdom1961

「非常に簡単に言って、譬えというのは一般生活や自然環境からとられた隠喩或いは直喩である。それは聞き手をその生き生きした感じと不思議さとでとらえ、果たしてそれが適確な表現なのかと大いに疑問を抱かせ、能動的な思考へと強く促す、そういうものなのである。」

ドッドは、イングランド北東部ダーラムで、研究生活を送った時期もあったようです。

パラボレーは、格言や諺など短い文や句などにも用いられるが、むしろ拡大され、物語的になっている譬えによく当てはまる。やもめと裁判官、ファリサイ人と徴税人の譬えなど。

  「彼はブルドッグのようだ」、直喩

  「彼はブルドッグだ」、隠喩と呼ばれる暗黙の含みを持つより強い比喩

譬えは幾分かその意味がつかみにくいのである。事柄を開示しながら、その一方で隠すところがある。常に聞き手から何かを引き出し、解釈を要求するものである。

 

この譬えは、その解釈(1115節)においては、寓喩となっています。つまり、話の中の一つ一つの要素が、何らかの他のものを表すように語られている、と言うことです。

ユーリッヒャー以来、ひとつの譬えは、たくさんのポイントを持つのではなく、ただひとつのポイントを持つ、と考えられるようになりました。

譬えが聞き手の精神と心情に何をなすのか、と言うことにこそ解釈は向けられるべきです。

 

聴衆である群衆は、ひとつの疑問を抱いたに違いありません。イエスは何故、彼らが既に知っている事柄を語ったのだろうか、ということです。

それを代弁するかのように、弟子たちから手が挙がりました。

「先生、この譬えにはどういう意味があるのでしょうか。教えてください。」

日本、とりわけここ北海道は、農業の盛んなところです。農業には詳しい方々が多いことでしょう。私は農業体験が殆どありません。その苦しい部分を想像しただけで、手も足も出なくなります。草花に水をやるくらいが良いところです。そんな私にも、この譬え話の種蒔きは、おかしいように感じられます。

 

道端に落ちた、石地に落ちた、茨の中に落ちた、良い土地に落ちた。落ちた,落ちたの連続。わが国では考えられないことです。丁寧に、一粒も無駄にしないように、植えて行きます。ユダヤでは伝統的に、種蒔きは袋に種を入れ、それを背に担ぐか、ロバの背に乗せ、隅にあけた穴から落ちるに任せる、という方法をとります。ずいぶん荒っぽい作業です。

カラスに種を取られそうなら、苗を作り、大きくしてから定植すれば良い、と考えます。茨の害があるなら、耕す前に雑草を丁寧に抜けばよい。

 

こひつじの先生方が、今年は色々なものを植えてみましょう、と考えて、いつものジャガイモのほかに大根や枝豆を植えています。特に枝豆は、プラ容器に土を入れ、種豆が芽を出すまで育ててから畑に植えました。大阪の教会の東へ坂を上ると、有名な帝塚山の高級住宅街。その一角に、さくらんぼの木があります。屋敷の塀の内にあります。実がつき熟し始めると、毎年急いでネットをかぶせ、そっくり覆います。

カラスや、ヒヨドリが一日で食い尽くしてしまうからでしょう。ほかにも枇杷や柿も狙われますが、ここではネットを見たことがありません。食べられていました。果物の値段が上がっています。これからは、果樹にはネットがつき物になるかもしれません。

 

創造のとき、人は地上における神の代理人として、全ての被造物を治めることを命じられました。暴力的な管理が許された、と主張する人もいます。そうではなく、日本人が普通に考えるような調和的な管理、共存共栄できるような管理だ、と考えます。最近は、共生・共棲、共に生き、共に棲む、という言葉が用いられるようになりました。

 

私たちは、種蒔きの方法がおかしいと感じ、そのことに心奪われてしまいます。しかし、この譬えが本来語ろうとしていることは、違うことであったように思われます。そのことを主イエスは、11節以下の解説で明らかにします。

種は何を指しているのでしょうか。神の言葉、福音の言葉と考えます。

種を蒔く人は主御自身でしょう。そして、後の教会にとって、伝道者、説教者となったであろう事も理解できます。そこでは、イザヤ書6910が予言するとおり、同じように語られた福音も、受け入れられることもあり、拒絶されることもある、と教えられます。宣教が進展しない教会は慰められるかもしれません。

 

蒔かれた大地の状況、道端、石地、茨の中、良い土地、み言葉を聞く者たちの状況であることが、はっきりさせられます。かたくなな心、自分中心な心、重荷を負うことを拒み、快楽を求め、自分を満足させようとする心、様々なことは、私たちが能動的に考えることを求めています。それが譬え話の特質です。

 

 み言葉を聞いた人がどのように歩むかを、女性たちの参加という形で、指し示しました。更に、次の1618節が語ります。光を獲たなら、それを輝かせるように求められます。

分かることは変わる事であります。 

 

イエスにとって、家族とはどのようなものなのか?

神の家族は、神の意思を聞いてそれを行う者全てによって造られます。

神の言葉を聞くことと行うこととは、イエスによって作られた交わりに到る道です。

道は、はるか遠くまで続いているものです。何処かに完全があり、そこで終わるようなものではありません。袋小路であれば、また正しい道まで戻って歩まなければなりません。

主は家長として、私たちが立ち返ることを待っておられます。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。」黙示320