2014年7月6日日曜日

風も波も従うお方

[聖書]ルカ82225
[讃美歌21]361,441,457、
[交読詩編]107:17~22、

厚別教会からお招きをいただき、ご一緒に礼拝するようになって満三年三ヶ月を経ました。無我夢中でやってきたように感じます。若くはないよ、と言い聞かせながらでした。ふと気付いてみると、大事なことを落としていました。それは、礼拝とは何か、という点に関し、学ぶことがなかった、ということです。礼拝に関する共通の認識を持っていないのではないか、ということです。私が、この講壇でお話しする以前に、立派な先生方が教えておられるだろうとは考えます。それでも、そのときの牧師が、どのように考えているのか、明確にすることが大事だ、と考えています。

 

 礼拝の定義は、さまざまです。いろいろな要素もあり、それらを網羅するのは至難の業。

簡単に、ひとつの側面からの定義をお示ししましょう。

『礼拝の場で神の民が経験することは、キリストにおいて頂点に達した神の救いの物語(救済史)の想起(アナムネーシス)であり、この事実に感謝と讃美をささげることであり、その物語を世界に向かって宣言し告知することである。

礼拝に与ることを通して神の民は、過去から現在そして未来に及ぶ神の臨在と働きを知ると共に、自らの存在の源泉と使命を自覚し、信仰共同体として成長する。』

                   キリスト教礼拝・礼拝学事典、P388

 

 キリスト教神学は、正確と厳密さを大事にするため、七面倒な言い回しになります。

私なりの言葉で表現してみます。

礼拝とは、神を仰ぎ讃美・告白を捧げる時・場である。

旧約では出エジプトを追体験する時、場。追体験する、過ぎ越し、七週、仮安主

新約では、救い主と出会い、讃美・告白を捧げる時。 

すなわち、主イエスの十字架と甦りを追体験するとき、場。

従って、説教は、イエスを語り、この方との出会いを起こし、この方こそ私の主キリストである、との讃美・告白に共に至る。

共に、という言葉は、ここにいる私たちだけではなく、時代を超え、所を越えたすべての聖徒たちと共に、という意味があります。教団の信仰告白に「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に使徒信条を告白す」とありますが、同じ意味を持っています。

 

話は変わります。お天気、毎年のように異常気象と言われるようになりました。亜熱帯化している、とも言われるようになりました。天文・気象は、いつだって我々人間の思い通りになったことはなかったのではないでしょうか。手の届かないところの出来事。

それでも短い期間の激しい変化はあっても、長い期間で考えるとおおよそ平均的な数値になったものです。

こうしたことは、気象だけではなくて、世界、社会、歴史でも起こっているようです。記憶に残るのは、1966年ごろ山梨英和学院の院長をしていた山田忠蔵先生の言葉です。長い間、中国で活躍した先生、メソジストの教職でした。

《今、大陸では文革の嵐が吹き荒れている。大陸3000年の歴史は、様々な大変革も、いつの間にか元通りにしてしまうものだ。少々長くかかっても、百年、二百年、そのくらい呑み込んでしまう、それほど、懐が深い国、民族ですよ。》

 

「地震・雷、火事、親父」。これは何でしょうか。昔から並べて云われて来た言葉です。

怖いものをいっているようです。最近の状況も、これを肯定するようです。少年の頃、留守番の心得を教えられました。「泥棒が来たら、出せるものは出して帰ってもらいなさい。怪我をしないように、火を出さないようにしなさい。火事は何もかもすっかり持っていってしまう。一番大事なものは命だ、これがあれば、物はいくらでも働いて取り返せる。」

地震、津波、竜巻、雷、山津波、原発事故、これらは物も命も全てを一掃します。怖いですね。

 

少々意味不明になりかけていないでしょうか。たぶん、怖いものの代表だったのでしょう。ですから、雷親父、という言い方もあるのでしょう。それでもある時期から、怖いというより優しくて友達のような父親像になってきたのではないでしょうか。代わって、母ちゃん怖い。これは子どもだけではなく、父ちゃんの台詞になります。異論があるのは当然です。今は、何が正しいか、論議する気はありません。怖いものでも、昔は平均的に統一されたものだが、現在は、平均値を出すことすら難しくなってきている、と申し上げたいのです。この四連語句は、怖いもの、というより、人の思い通りにならないもの、をさしているのではないかな、と感じます。親父は、頑固で、旧弊で、少しばかりの経験を後生大事に守っている。更におかしなところでロマンチスト。「地震、雷、火事、親父」、これは怖いものではなくて、人の思い通りにならないものを代表している言葉。思い通りにならないもの、怖くなくても、面倒で敬遠したくなるものです。

 

本日の聖書は、嵐に悩む船の中で眠っておられる主イエスの姿が描き出されました。

いつのことかは判りません。主イエスは、ガリラヤ湖の東岸を目指して弟子たちを伴い、船出しました。漁師も加わっています。疲れていたし、安心だし、船に乗って間もなく眠ってしまわれました。ガリラヤ湖は、地形上の理由で、強い風が吹くことで良く知られていました。このときも突然嵐となり、突風になりました。慣れているはずのペトロを初め、お弟子さんたちは吹いてくる風の勢いに恐れをなしました。これまでの経験にもなかったのでしょう。一人眠っておられるイエス様にすがりつきました。

手に負えない自然現象に対する恐れが、ここには見えています。これを何とか出来る人がいるとすれば、既に奇跡をなさった先生、イエス様よりほかには考えられません。弟子たちは、先生を揺り起こしました。

「先生、先生、おぼれそうです。何とかしてください」。

 

イエス様は、起き上がり、風と波をお叱りになりました。すると、たちまちのうちに湖は静まり、静かになりました。

イエス様は、弟子たちに言われます。「あなた方の信仰はどこにあるのか」。

弟子たちは、イエス様と一緒にいて、多くのことを教えられ、学び、奇跡を見てきました。

彼らは、イエス様を律法学者のように感じていたのでしょうか。学者に対する尊称、ラビ、ラボニ、を用いています。しかし、学者に対するのと同じ呼び方をしていても、学者だと、信じていたはずがありません。学者には行動がありません。他の呼び方がなかったのでしょう。あれば、それを使ったことでしょう。

 

 弟子たちは、付き従い、この舟に乗り込むまで、学者先生以上のお方として信じていました。それでも、風と波の恐ろしい現実にぶつかったとき、その信頼の幾分かは消えてしまいました。その消えた分だけで、不信仰となってしまいます。

あり難いことに、主は不信仰だから、相手にしないよ、とは言われませんでした。

 

嵐の波と風に行き悩む船は、世界教会一致運動のシンボルマークです。

第二次世界大戦後の現代世界は、決して平和ではなかった。いつもどこかで戦闘が行われ、多くの人々が殺され続けました。原子力・軍備拡充のために莫大な予算が使われ、その廃棄、縮小のために、更に無駄金が遣われる。そのために世界中の貧困、病気、高齢化、などの問題が取り残されました。

 

この嵐の中に漕ぎ悩む小船に、主イエスは共に居られるのです。風と波を、思い通りにする力を持ったお方が、共にいてくださるのです。

そこには、専門技術を持った人がいて、主はその人たちの腕前を信頼して、安心し、眠っておられます。私たちは、与えられた、自分の力を有効に用いることが出来ます。

この主イエスに呼び求めることも出来ます。こんな些細なことで煩わせては申し訳ない、と感じることもあるでしょう。それが私の務めだよ、といってくださいます。遠慮しないで、甘えようではありませんか。