2014年7月20日日曜日

会堂長たちよ、ただ信じなさい

[聖書]ルカ8:40~56、
[讃美歌21]361,11,457,77、
[交読詩編]52:3~9、

夏休みの始まりを告げる夏の三連休、私たちの世代には、全く馴染みのないも
のです。
どのような目的で制定されたのか、これに何の意味があるのか、分かりません。
お休みだ、お祭だ、喜べ、楽しめ、騒げ、それで良いのかもしれません。政府
をお上と考え、何事も言うことに従う国になって行くいつか来た道。
国民を舐めんじゃねーぞ、と言いたい。この半世紀の間に学び、成長して来ま
した。
普段はおとなしいけれど、底力で抵抗しますよ。反抗します。平和ボケと言われて
もよい。平和憲法を守る。わが子を戦場へは行かせない。人殺しにはしない。
さて、本日の聖書に入りましょう。
ここには、二つの出来事が記されている。時間的、場所的、人的なつながりのため
か、一連のこととされる。内容的には、どうなのだろうか。二つの癒しの奇跡で良
いのかな?
場所は、ガリラヤ湖の西岸になります。カフェルナウム、と推定する学者もいま
す。異教徒の地、イエスを拒絶した東岸・ゲラサ人の地から帰ってきました。人
々は、待ちかねていた様子で、歓迎しています。ここで、会堂長ヤイロが登場しま
す。お気の毒なことに、この人の12歳の一人娘が死にかけています。
14日には、岡山県で、小学校 5年生の女児が行方不明となっている。最近この類の事件が多
発している。原因や解決に関心がないわけではないが、今ここで話したいのは、父親、母親の精
神状態のことだ。子どもが行方不明、帰ってこない、どこにいるのだ、無事に帰ってきて欲し
い。子どものことが心配でならない。
20日朝には、発見されたことが報じられ、やれやれと一安心。これまでのご両親、祖父母のかた
がたのご心痛は、たいそうなものでしょう。自分をその場に据えて見ることも恐ろしくて出来か
ねるほどです。
12歳は、イスラエルでは大人への橋渡しの時期。男の子は 13歳から一人前に律
法遵守が求められます。女の子は、この頃女となり、嫁に行くことが許されま
す。ヤイロの娘は、輝くような希望に満ち溢れているはずでした。ところが、彼
女は病床に伏しています。その期間は不明です。あらゆる治療の手段が施され
たでしょう。ヤイロには、それだけの力がありました。いまや万策尽き果てた、
と感じます。その彼の心に浮かんだのは、ナザレのイエスのことです。ユダヤ社
会の大方から非難されるだろう。会堂長としての地位も危うくなるかもしれない。
でも娘の尽きかけた命を救ってくださるのは、あの方しかいない。
危篤の娘の命を救いたい一心で、病床に心を残しつつ、イエスのもとへやって
来ました。
会堂長(口語訳までは会堂司)とはどのような人物でしょうか。アルキシュナゴグ

「ユダヤ民族の特別な歴史とそれに基づく律法を提示しているのは聖書(旧約聖
書)であり。そこに民族存在の根拠があった。したがって聖書の学習は幼少時か
ら行われた。両親、学校、およびシナゴーグにおいてである。このうち両親による指
導が基礎的なものである。
ユダヤの少年は13歳頃になると、すべての戒律の遵奉が義務付けられた。
シナゴーグにはしばしば教室が付属していた。
シナゴーグで最も重要なのは櫃であり、そこに聖書の巻物が収められていた。
会堂司たちは、会堂や聖書の管理に当たった。」(ここまで、秀村欣二・新約時代
史)
「また礼拝のお話をする人の選定、依頼。地域のやもめ、孤児の世話、そのた
めの募金や献品の取りまとめなども担当し、地域社会では尊敬される名士であ
った。」(この項は持田)
 このようなヤイロが、イエスの前で平伏して願いを述べます。ゲネサレの男
も、イエスの前で平伏しています。全面的な服従を表します。
イエスは、ヤイロの求めを受け、その家に急ぎます。
6: 6~ 11には、安息日に、会堂で手のなえた人を癒された、と語られます。そ
の結果、律法学者、ファリサイ人たちは、怒り狂い、イエスを何とかしよう、と
話し合います。
一般の人々、苦しみ、悩みの中にある人々は、イエスを求め、イエスに従いま
す。然し、権威ある人、有力な人々、尊敬されている人、血筋・家柄・資産など
を誇る豊かな人々は、それらを失うことを恐れ、イエスを何とか退けようと考
えました。
本来、会堂長は、この仲間のはずです。ヤイロもそのつもりでいたでしょう。ユダ
ヤの伝統を担う者です。然し娘の命は、伝統よりも、仲間よりも重いものでし
た。
イエスを伴い、一刻も早く、と家路を急ぎます。
 ヤイロの心を知らない多くの群衆が、次々とイエスを取り巻きます。その中
に一人の女が紛れ込んでいました。12年間、血の流失が続いている人です。
43~48節、長血の女。流出は不浄とされていました(レビ15:19~33)。
ユダヤ社会では、身に汚れある者は、その共同体に入ることを許されなかった。
彼女が触れるものは全て汚れたものとなり、彼女に触れるものはすべて汚れる(レ
ビ15:25~30)。彼女の家、会堂、社会において、彼女はアウトサイダーであった。
もっと踏み込んで言えば、この女性は、その世界で失われた者、死んだもので
ある。
12年間、孤独に耐えて、回復のためにあらゆる手段を尽くしたこの女性。全財産
を使い果たし、なお回復しなかった。この時でもまだ、「娘」と呼ばれている。
最後の望みをイエスにかけた。信を置いた。イエスの服の房に触れた。
この女性はたいそう賢い人です。掟に従えば、このような群衆の中に来ること
すら許されません。他の人々を既に汚していることでしょう。(そのような穢れを
清めるための祭儀、供犠もあります。)一方、群衆は、この女性に対して、全く
無関心です。見えないのか、見ようともしていないのか、無視しています。彼女はイ
エスの服の房に触れます。
イエスは、ご自分の内から力が出て行ったことを知り、触れたのは誰か、尋
ねます。これに答えることは、自分が不適切なことをした、と告白することにな
り、咎めを受けるはずです。女は、恐れつつも自分であること、そこで起こった
ことをすべて申し述べました。主イエスは、あなたの信仰があなたを救った、と
言われます。この娘は、安心して行くことを保障されました。主が、平和がある
ように、と言われるときの、あの平和です。
病気が癒され、肉体が壮健になり、共同体の一員であることも回復され、人並み
にどこへでも行くことができる、そう、働くことも出来ます。主イエスの持つ力
によって、労働する喜びも回復されました。それは、私たちの信頼によって働き
ます。
 話しているうちに、会堂長の家から使いが来ます。最悪の知らせです。
「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」この
者たちは、家で働く者たちで、会堂長の心情がわからず、ユダヤの掟を尊重して
いるのでしょう。おかしな言説をするイエスに対する警戒感があるようです。配慮深
く聞こえる言葉の奥に、距離感を感じます。敬遠かもしれません。拒絶しよう、
関わりたくない、心があります。
イエスはそのような言葉を気にかけることなく、恐れるな、と言い、先を急ぎ
ます。到着します。人々は泣き悲しんでいます。既に葬式の準備です。先ず最初
に 泣 き 女 が 招 き 入 れ ら れ ま す 。 ど ん な に 貧 し い 人 の 葬 儀 で も 、 泣 き 女 は 用 意
されるそうです。この家なら多数の泣き女が用意され、人の心をかきむしるよう
に、悲しみを掻き立てるように、上手に泣いているでしょう。
西隣の半島の国では、今でも、泣き女が付きものだそうです。家族の悲しみを
増幅し、悲しみの頂点に押し上げることになるなら、それなりの効用が認められ
るでしょう。ひとつの文化であって、批判することは考えません。
 イエスは、人々の嘲笑の中で、娘は、眠っているだけです、と言い、娘の手
を取って、
「娘よ、起きなさい」と言われます。すると、娘の霊が戻ってきた。創世記 2章
などに基づいて考えると、霊は風、息であって、被造物である人を生かす神の力
を指します。
『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで
人は生きた者となった。』創世2:7、
ヤイロの娘の身に起こったことは、再創造であり、甦りなのです。
 悪霊に憑かれたゲラサ人の身に起こったことも、人格が回復される甦りでし
た。
長 血 の 女 の 身 に 起 こ っ た こ と も 、 社 会 か ら 疎 外 さ れ た 人 が 回 復 さ れ る 甦 り で
す。
ヤイロの娘も、生きる者の世界から死者の国,シェオールへ送られた者の回復、
甦りです。
この三つの物語、出来事はひとつの奇跡、不思議な出来事を指し示しています。
主 イ エ ス は 、 ご 自 分 の 復 活 に 先 立 っ て 、 多 く の 人 々 、 不 可 解 な 諸 力 や 、 病 気
や、人の言いならわしなどによって、社会から追い出され、死んだ者にされてい
た人々に復活を与えておられます。主なる神の大きな力と本当の愛を表してい
ます。
イエスは、それほどに一人びとりを愛し、大事にされました。
奇跡が信仰を生み出すのではありません。奇跡は信仰から生じるのです。
私たちは、ひたすらに信頼することができます。
感謝して祈りましょう。