[讃美歌]讃美歌Ⅱ編144,讃美歌21;285,529、
[交読詩編]13:2~6、
早いものです。八月の半ば、暦の上では7日が立秋。七十二候のうち三十七候「すずかぜいたる」涼風至になりました。実際は夏が、もう少し続くでしょう。
前主日は『平和主日』でした。そのことに関してはお話しすることがありませんでした。そもそも、何故この日が、平和主日なのか。私には呑みこめないからです。頭の悪さ、
原爆投下を記念する、唯一の戦争被爆国が平和を訴える。それでは、自国の原爆の被害を訴えることで、もっと広く戦争と平和を訴えることにはならない、と感じます。
戦争は、それを始めた国や人がいます。その責任を問う裁判もありました。戦勝国の正義観、論理で裁きました。第1次大戦終結後も、同様な裁きが行われました。再び戦争を起こさないように厳しい賠償の取立てが行われました。ある人々は、これこそ次の戦争の種まきである、と指摘し危惧しました。第二次大戦になりました。
戦争は、差別と貧困の中から生まれます。最大の悪は貧困だ、と言われるのです。
忍耐を強いられた人々が、それを跳ね除けようとします。そして望むものを手にすることもできず、多くの人が死傷します。自ら愛する者が、また愛された人が、永久に失われるのです。周囲に何倍もの悲しみ、苦しみ、恨みが生まれます。平和ではありません。
1945年、昭和20年8月15日、満5歳になった私は、東京の西北部、当時、豊多摩郡と呼ばれる農村地帯の一角にある三部屋の家に住んでいました。今では23区のひとつ練馬区豊玉北になっています。墨田区の家は、3月10日の東京大空襲で焼けたため、用意されていたここに移って来ました。10万人を超える人が殺された大空襲は、忘れることができません。疎開のため、大幅に人口が減少していた東京でした。疎開政策がなければもっと多くの人が命を落としたでしょう。
原爆に関しては、その当否が問われます。然しこの大空襲という計画的な非戦闘員の殺害は、問題にされていません。人を一人殺せば殺人罪、10人殺せば英雄、と言われます。ベトナム戦争の初期には、戦死者は、と言われていました。ある時期からは、何名が殺された、と表現されるようになりました。メディアの意識が変化したのでしょう。残念なことに25年前の日本人に対する行為には及びませんでした。差別があります。
カーチス・ルメイ将軍(後、空軍大将、空軍参謀総長)指揮下のアメリカ陸軍航空隊は、命令により、情報を元に、一般市民殺戮作戦を立てました。将軍は、ヨーロッパの戦争で、絨毯爆撃を成功させました。戦争指導部は、日本の戦意喪失を計画し、東京の下町に狙いを定めました。大きな円環状の地域の周囲を焼夷弾で炎上させ、火の壁を巡らせ、逃げ出せないようにして内側をしらみつぶしに爆撃する。そのための焼夷弾、油脂爆弾も既に開発され、製造されました。
これは個人の行為ではなく、統合参謀本部の決定した方針、戦略命令に基づきます。
関東地方は、わずか22年前にも、おなじような地獄絵図を経験しています。
1923年・大正12年、関東大震災は、東京・横浜でおよそ10万の死者を出しました。家屋火災によるものが殆どでした。とりわけ東京本所の陸軍被服廠跡地では地獄が現出しました。ここだけで4万人超の死者となりました。(被服廠は赤羽に転出済み)
遺体は、半年にわたりここで焼き続けたそうです。横浜に有名な山下公園、山下桟橋があります。何も知らずに多くの人が散策しています。その足元は、東京・横浜の震災瓦礫だと聞きました。
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)、神奈川県南西、伊豆半島沖80km相模湾(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害です。
神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸の広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。「死者・行方不明 10万5千余」
現在、両国の駅前東口には国技館が建っています。その裏手南側が、都立江戸・東京博物館。更に東にはホテル、学校があります。国技館前北側に道路、さらに隅田川が流れています。この辺りに横網公園、東京都慰霊堂もあります。現在、こうした大きな建築物のある一帯が、被服廠跡地です。震災のときには、有効利用のため再開発の計画中で更地になっていました。そのため関東大震災時は、多くの人々が避難をしました。その人々を猛火が襲い、約44,000人の死者を出した場所です。
東京大空襲は、死者14万と伝えられます。皆殺し作戦は大成功と評価され、都市への無差別爆撃が続きます。日本全土が戦場となりました。戦争の惨禍が国民の胸に刻み付けられたはずでした。日本人は忘れっぽい、と言われます。大切なことは、忘れてはいけません。心に刻み付け、考え続けるべきです。
戦争は、喧嘩と同じで、相手がなくては成り立ちません。いつでも相手になるぞと言う姿勢を取ってはなりません。ひとつの環境整備です。制裁は、抑止ではなく、既に戦争です。戦争は環境の産物です。そして両者の間に悲しみと苦しみを振りまき、憎しみと恨みを永く残すのです。戦争をしない、出来ない環境は、先ず教育によって整えられます。
さて、本日の聖書に入りましょう。少しだけ、三福音書を比較してみます。
マタイ、マルコと同じく、ルカはこの記事を、最初の受難予告の次に置いています。
イエスは、来るべき受難について語った後、エルサレムに向かう前に天からの確証を得た、ということになります。
ルカだけが、イエスとモーセ(律法)とエリヤ(預言)の会話の内容を示しています。彼らはイエスのエルサレムでの、近づきつつある死について話しています。あるいは、ここは文字通りには、彼の近づきつつある『出発、逝去・エクソドス』について話していた、と言えるでしょう(31節)。エクソダスは出エジプトの意味。イエスの出来事は新しい出エジプトである、と言っているのです。
三人の会話の間も弟子達は眠っていました。ようやく目覚めたペトロの発言は、雲によって遮られてしまいます。雲は、畏怖の念を抱かせるような神の存在と結びついています(出エジ24:15~16、使徒1:9)。使徒たちは、当然畏れました。
使徒たちは、経験したこと、見たこと聞いたことの意味が、何も分からなかったのです。
33節でペトロが発した言葉すら、無我夢中、忘我の状況であり、自身、意味が分かってはいません。
三人の弟子は、理解できないことに関しては、口を閉ざしていました。いつまでか、その意味が分かる時までです。話す準備ができていなかった、と言えます。復活の後の適切な時期に、彼らはこのことを思い出し、理解し、よき知らせとして広く語ることになるのです。
使徒達は、山の上で神を経験しました。そして神だけが、この場の行為者です。
モーセとエリヤの神は、彼ら二人をイエスとの結びつきにおいて、預言された先駆者として肯定し、イエスが究極の存在であると断言しているのです。
主イエスと三人の弟子たち、彼ら四人が、栄光に満ちた山を降りて麓へ来ると、其処には群衆が出迎えています。その中の一人の男が叫びました。「先生、どうか私の子を見てやってください。一人息子です。悪霊がとりつくと、この子は突然叫びだします。・・・」
「一人息子」、アブラハムの息子イサクを思い出します。神の祝福を受け継いで行く希望の星でした。悪霊の働きは、この継承の希望を奪い取るものです。その一人子を生け贄にするように命じられた時のアブラハムの悩み、悲しみ、絶望。それが、この父親の心境です。
「先生」、ディダスカレ、教師、先生、師を指す語。ディダスカロスが原形。律法学者に対しては、ラビ、ラボニ、が用いられます。ここではもっと広く全人格的な意味で、先生と呼んでいるのです。叫んでいるのです。あるとき高校の生徒、大学生から聞きました。自分たちが、先生と呼ぶのは何にも感じないからです。尊敬する人には使いません、「さん」をつける。~さんと呼びます。
この男は、現代の青年が呼ぶときの「さん」と同じ心で「先生」と呼びかけ、叫んでいるのです。
主は、嘆きながら、悪霊を追い出されます。その嘆きは。そのまま現代の人々に向けられているようです。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」それでも癒されます。
ある註解者は、「これらのテキストを聞き手の前に差し出す際に、その非日常性をそのままに保つようにと助言されるほうが、その非日常性を我々の経験の輪郭に合わせるために減じよと言われるよりも、良いかもしれない。」と語っています(クラドック)。
何回か、お話したように、奇跡を合理化せずにそのまま受け入れる、ということと同じ姿勢だと感じます。この学者には、励まされます。
このところは、9:51に始まるエルサレムへの旅に対する準備段階の出来事の始です。
力において(37~43)、理解において(43b~45)、謙遜において(46~48)、憐れみにおいて(49~50)、全く不十分であることが示されました。
欠如、欠陥を語ることが目的ではありません。むしろ欠けがある故に選ばれ、主のみ旨に従って満たされることが語られます。力と権威を授けられて派遣されるのです。
教育・保育を考えます。家庭でも学校でも、場当たり的に漫然と教育することはしません。過程の考えがあり、建学の精神があります。これらは、教育全体の基盤となります。その上に目標を立て、計画的に達成するように努めます。主イエスは、今弟子たちの教育の段階上、大事なステージに上がったことを承知しています。これまで、御自身のそば近くにおいて、学ぶようにしてこられました。伝道の実習にも派遣されました。帰ってきた弟子達を、更に教えられました。弟子の教育が、まだ不十分であることを知りました。
主イエスは、これからエルサレムへと、出発しようとされます。そこで、出発までに、弟子達の補充教育をしようとされます。
力において、理解において、謙遜において、憐れみにおいて、再教育と言えるでしょう。
教育・指導に関しても、主は目標と計画を持ち、きわめて忍耐強いお方です。
私達も欠け多く、不十分であるゆえに、選ばれ、教えられ、導かれています。
感謝しましょう。