2014年8月3日日曜日

ペトロの信仰告白

[]ルカ91827
[讃美歌Ⅱ編]144、[讃美歌21];8,510、
[交読詩編]18:26~35、

 

 暑い日が続いています。道内でも35度超を記録しているようです。クーラーを使用する習慣のないところで猛暑日というのは、少々過酷なように感じます。

かつて、都内の学校に空調設備はありませんでした。最近は、教育環境の整備のため設置するところが大部分です。各教室、廊下、体育館に到るまで。これは平均気温の上昇を受け入れざるを得なくなった、と言うことです。教会は、この点ではもっと早く意識改革をしています。主日の礼拝を快適に捧げましょう、ということです。岩槻では、私が赴任する以前、ずーっと前から大型の空調機がありました。10年以上

北海道は、どうなるのでしょうか。あなたはどのように考えておられますか。

 

 本日の聖書は、ペトロの信仰告白と受難の予告です、と言って差し支えはなさそうです。

ただ、受難の予告は、受難の意味を語り、弟子達の生き方を教えよう、とするものです。

 

 主イエスは、このところで「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになります。イエスは誰か、という問いは既に二回、尋ねられています。

825、「弟子たちは恐れ驚いて『いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」

98、領主ヘロデは言った。

「いったい何者だろう。耳に入ってくるこんな噂の主は。」

 

ヘロデの耳に入った噂とはどのようなものだったでしょうか。ヘロデは、領主、この地方を統治する権力者です。権力者の耳にはすべてが正しく聞こえてくるものでしょうか。

権力者は多くの場合、自分にとって都合の良いことだけを聞くものです。周囲の者は、権力者が聞きたいことを聞かせ、それ以外を排除するものです。

このようにして、古代の帝王は、国内の反乱の動きを知らず、安逸を貪り、たった一人で反乱軍に捕らえられ、処刑されました。

 

これは、どちらも自問自答と言ってよいでしょう。たいてい長い間考え続けて答えを出そうとするが、いつの間にか忘れてしまうことが多いものです。

神学校に入って間もなくの頃、教えられたのはそうしたことでした。

「神学校の教師が語ることは、なるほどと思わせることだ。その中に、はてなと感じることがあるはずだ。そのときは質問にはならないかもしれない。それを頭の中で暖め続けなさい。明確な言葉・質問になったら教師にぶつけなさい。」

私達には、考えるスタミナが必要です。そのことを教えてくれたのは、日本人初のボクシング世界チャンピオン白井義男さんです。クレバーボクサーと呼ばれた白井さん。数十年後になって語りました。「ボクシングで大切なのは、15ラウンド殴り合いを続けるスタミナ以上に、考え続けるスタミナです。」これが白井さんのボクシングだったのです。

人生は、目に見える相手や目にはみえない難敵とのボクシングです。

 

5000人への給食、そして御自身の受難と、それぞれ自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい、との教えが語られています。前後の文脈・構成は、三福音書に共通です。

 

単純な推測。はじめにマルコ福音書が書かれました。次いでマタイとルカ、どちらもマルコに基づきながら、自分の必要に応じてそれぞれが持つ独自の資料の中から付け加えました。三福音書間の違いはどこから来ているのか。時代の要求に応えたのです。

 

マタイは、彼の教会の状況に必要な告白と教会の基盤に関する言葉、教会の権能に関する言葉を、自分の伝承の中から見出しました。

マタイ161619は、フィリポ・カイサリアにおける有名な告白です。

 

16:16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 16:17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である 16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

 

この告白と、それに対する主の言葉は誰に対するものでしょうか。

  告白は誰の力によるものか。神の力が、ペトロに働きかけた。個人の力ではない。

  教会の基盤は個人の人格か、それとも告白か。キリスト告白が岩である。

  鍵の権能は、教皇個人のものか。告白する教会に委ねられている。

旧教会は、ペトロ個人に対する言葉。代々のローマ教皇は、ペトロの人格の後継者。

 

マタイもルカも、イエスは先駆者ではなく、神のメシア、キリストである、との告白を記します。世の罪を取り除く神の子羊です。

 

ルカは、やがて使徒言行録を書く計画を持っていました。使徒達の宣教活動の根源を明らかにしようとしました。それが、「神からのメシアです」と言う告白とそれに続く、受難予告と自分の十字架を背負って従うことの教えでした。

改革者は、教会の基盤はこの告白にあって、告白したペトロ個人、その人格ではない、としました。従って「鍵の権能」も、告白する教会にこそ存する、とする。聖職者の階級制度・ヒエラルキーに反対しました。

 

私たちは、自分で教会を選び取ってはいない、と考えています。たまたまその教会を知っていて、行く気になったから、程度でしょう。事前によく研究し、調査の結果あの教派、あの教会、あの牧師、あの役員、あの伝統を選ぶことは殆どないでしょう。

ただ、その後多くのことを知り、聖書を理解し、解釈を選び取るようになります。最初は偶然であったものが、深められ、確実さを増して行きます。

 

改革教会で受洗し、その後、旧教会へ転会する人があります。事情があったこと、その経緯もお聞きしました。事情は理解致します。できる。

福音を伝える教会に差別がある、とは信じがたいことです。新旧共にあります。

カソリックの階級制度は全く信じがたいことです。教皇を頂点とするもの。枢機卿、大司教、司教、司祭、そして聖職と信徒の間に存する懸隔。大きな溝。

 

あるカソリックの信徒、「私たちは、司教様がおいでくだされば、地に伏して、司教様の靴に接吻いたします。」と言いました。神の地上における代理人と信じますか。

それには、教皇無謬の教義を認め、受け入れなければなりません。教皇庁は、枢機卿団の有能な支えによって教皇は常に誤ることがないという意味です、と説明します。そうでしょうとも。枢機卿団こそ教皇選挙の母体ですから、そのように言わざるを得ないでしょう。選んだ人たちであり、事あれば次の教皇になる人たちですから。

このようなカソリック教会だからこそ、スタンダールの『赤と黒』が書かれ、広く読まれたのでしょう。私は、読みませんでした。主人公の名前はジュリアン・ソレル。赤は軍服の象徴、黒は僧服の色。ルーレットの色という説もあります。家柄や資産、門地門閥というような背景を待たない一般庶民が成功するには赤か黒が、手近であるということです。

靴に接吻するような信仰者にはならないでください。そのような聖職者であるなら、私は自らを恥じるでしょう。

 

牧師職としても、成功などはないほうが好いのです。

成功は、悪魔的な誘惑です。自分の十字架を背負うことを避けるようにしてしまいます。仕えるつもりでいるのに、いつの間にか人をあごで動かし、利用するのが当然になっている。世の権力者と変わりません。主は、私達一人びとりの罪を贖い取るため、十字架に架けられました。私達も、他の人を生かすために重荷を負うなら、苦しくとも喜びと感謝を生きることが出来るでしょう。

 

 

 

マタイ福音書

16:13イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。 16:14彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。 16:15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 16:16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 16:17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である 16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 16:20そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。

 

 

マルコ福音書8

27さて、イエスは弟子でしたちとピリポ・カイザリヤの村々むらむらへ出でかけられたが、その途中とちゅうで、弟子でしたちに尋たずねて言いわれた、「人々ひとびとは、わたしをだれと言いっているか」。 28彼かれらは答こたえて言いった、「バプテスマのヨハネだと、言いっています。また、エリヤだと言いい、また、預言者よげんしゃのひとりだと言いっている者ものもあります」。 29そこでイエスは彼かれらに尋たずねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言いうか」。ペテロが答こたえて言いった、「あなたこそキリストです」 30するとイエスは、自分じぶんのことをだれにも言いってはいけないと、彼かれらを戒いましめられた