2014年8月17日日曜日

隠された真実

[聖書]ルカ94356
[讃美歌]二編144、讃美歌21;12,520,77、
[交読詩編]94:8~15、

 

七十二候では、今日までの五日間『寒蜩鳴』ひぐらしなく、でした。手元の卓上カレンダーには、夏木立に木漏れ日の写真、俳句作家・平野恵理子さんの短文があります。

蜩(ひぐらし)が  鳴き始めるころ

この声を聞くと、

遠い日の夏休みを思い出し、  切なさが募ります。

どなた様にも心当たりがあるのではないでしょうか。私も、少年の日々が思い出され、とりわけ御殿場で聞いた染み入るような、消え行くような、悲しげな声を思い出します。

 

札幌では、10種類のセミが見られるそうです。

ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシ、この五種は内地と共通。他は北海道独自の種です。エゾゼミ、コエゾゼミ、エゾハルゼミ、アカエゾゼミ、エゾチッチ、これで10種。どれほどお耳にかかっているでしょうか。

内地では最近西から東へ勢力を拡張しているクマゼミがいます。昔、研修のため熊本へ行きました。そこで聞いた「シャーシャー」というセミ。姿も見ました。やや大型で透き通った羽、筋が緑がかっているのでしょうか、全体が緑がかって見えました。これがクマゼミ、15年前、大阪の夏の主人公でした。その後、その勢力拡張は関東にまで及んでいるようです。関西では、従来の種は少なくなっているようです。「悪貨は良貨を駆逐する」と言うことにならないと良いのですが。

 

前回の説教では、弟子達が、力において(3743)、理解において(43b45)、謙遜において(4648)、憐れみにおいて(4950)、全く不十分であることが示されました。それは同時に、主イエスの弟子達に対する教育が不足していたことでもありました。福音書記者ルカは、欠如、欠陥を語ることを目的としてはいません。むしろ欠けがある故に選ばれ、主のみ旨に従って満たされることが語られます。力と権威を授けられて派遣されるのです。追加教育が必要です。補習と言えるでしょう。

 

その直接のきっかけは、45節ではないでしょうか。

45節は、弟子達の現状を明らかにしています。即ち、彼らがイエスの語る言葉の意味を理解できないでいた、ということです。主イエスは弟子達に、いま、多くの人々に感動を与えた「主御自身が、人々の手に渡されようとしている」と言われました。これは、ルカ福音書では、二度目の受難予告になります。間もなく現実のこと、事実となります。しかし、弟子達はこれを理解できなかったし、彼らにとって真実は隠されていました。

 

ここではギリシャ語のロゴスではなく、レーマが用いられています。ロゴスは、論理、理性、など広い意味を持ちます。レーマは、語られた言葉、実際に話された話、その内容を指します。「全てロゴスの具体的表現」で、語られた内容そのもの。翻訳者の苦労がわかるような言葉です。

 

この直前、悪霊払いも、イエスにおいて父なる神が語られる出来事です。力ある業は、そのまま真実であり、真理です。受難の予告は、同じ主イエスが、まるで力を失った者のように、他の人々によって運命を決せられる、ということです。

 隠された真理、これを奥義・秘儀、ミュステーリオンと言います。そして、この意味が明らかにされることを啓示・黙示(アポカルプス)と言います。主イエスは、その全生涯が秘密・ミュステーリオンであり、同時にその意味を明らかにする啓示なのです。

 

「真理」とは物事の根本原理のことをいいます。本質的(例 真理に目覚めた)。

「事実」は実際に起こったことをいいます。客観的(例 事実無根)。

「真実」とはウソではないことをいいます。主観的(例 宗教的真実)。

 

46節からは、偉い者になりたい、という弟子達の欲求が現れます。これは、2000年の昔のことではなく、これまで、いつでも、どこでも繰り返されてきたことです。弟子達は12人です。多いから争いになったのでしょうか。決してそうではないでしょう。どこかで読んだような気がします。「人は、二人以上いれば必ず、主導権の争いが始まる」。

年齢、体格、腕力、知力、などで優劣が決まっているように見えても、なお争うのです。

相手の足元を払い、引きずり落とし、自分を相手より高い者・力ある者にしようとします。

 

 力を誇ろうとする弟子達の中に、主は一人の子どもを立たせます。子どもの中にはとてつもなく大きな力を持つ者がいます。然し、主イエスが傍らに立たせたのは、ごく普通の子供です。また、現代の心理学が語るような子どもでもありません。

子供=自我の確立、アイデンティティー形成時期にあるため、最大の関心は自己や親に向けられます。

大人=自己愛を抑制し、自己を客観視し、異質な他者を理解することによって、

コミュニケーションが可能になり社会性を持つ。

ここでの子どもは、ユダヤの律法が語る子ども、と考えたほうが適切でしょう。

子どもは、その家庭に与えられた神の祝福です。子どもが、神の祝福を次の世代に受け渡して行きます。それは、神の民であること、その徴である割礼と律法、そして与えられた約束の地を受け継ぐことです。彼らは、大事に守られ、育てられるべきものです。

 

ギリシャ語聖書では、パイディオンが用いられます。原型は、パイス。類語があります。

テクノン、親との関係、親の性質を受け継いでいる意味を含む。

フィオス、息子、世継としての特権をふくむ。

パイス、年齢的に子供であることが第一義、また親子の関係も。

 

子どもを受け入れることは、親がなすべきことです。どのような子どもでも、親はこれを愛し、守り、育てます。これが、受け入れることです。出来の悪い子どもほど可愛いものだ、と言い慣わされて来ました。親であるためには、忍耐が必要です。これが親の担う十字架です。これは、親となって、よく解ることです。

この子どもを受け入れることは、主イエスを受け入れることです。そして、それはイエスをお遣わしになった方を受け入れることなのです。小さい者は、他の人々によって運命を決められるように見える非力な人を指しています。イエスを示唆します。十字架のイエスを受け入れる者は、まさに最も偉大な人物になります。

 

49節以下は、イエスに従う者には、異なる形態があることを明らかにします。イエスの周りには、12人の者、70人或いは72人の者たち、更にその外側に多くの者たちが従っていました。ここでは、この集団の外にもイエスの名によって、不思議を行う者がいた、と知られます。これはイエスに従うものではないから、やめさせるべきだ、というのが弟子ヨハネの考えでした。それに対して主は言われました。

「やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方なのである。」

 

イエスの時代、弟子達の時代、教会の時代、いつでもイエスに従う者たちは、自分たちこそイエスに正しく従っているのだ、と考えたようです。主イエスに従う特権的な集団があり、他の者たちの上に立ち、権威を振るうことができる、と考えました。然し、主の考えは違います。従って歩む形、奉仕する形にはいろいろあるのだ、ということです。

マタイ16にはペトロの告白が記され、その中には、『鍵の権能』と呼ばれるものがありました。ローマ教会は、これをペトロ個人が与えられ、その後継であるローマの教皇が保持し、執行している、と主張しています。地上における神の代理人として罪の赦しを与え、また破門を以って脅迫し、権威を高めようとしました。

改革の系譜を引くハイデルベルク信仰問答は、問8385で、「福音の説教と戒規(訓練)によってする」と教えています。戒規は拒絶ではなく、失われようとする者を、もう一度キリストの恵みのうちに取り戻すことが目的です。

主は異なる形を認めることで、豊かさをお与えくださいました。どのような形で主に従うか、わたしたちは選ぶことができます。感謝して祈りましょう。