[讃美歌]175,256,265、261,
[交読詩編]89:20~30、
創立50周年記念の集会からふた月近く、なんとなく気ぜわしい時間が流れて行きました。追い立てられるようにクリスマスになりました。この頃は、クリスマスの音楽が、余りラジオなどから流れなくなっていました。今年は、12月最初の水曜夜、ヘンデルの《メサイア》が聞こえてきました。以来、毎日、何かが聞こえるようでした。自分でもいくつかあるクリスマスアルバムを聞いていました。
世の中が、このクリスマスを迎えて、急に信仰に目覚めたわけではありません。おそらく、2014年には、自然災害が多く発生したので人の心に不安がある。その心情にどのように訴えるか、と考えた結果がクリスマス音楽。
2月は大雪、以来度重なる豪雪、集中豪雨、土砂災害、台風上陸、御嶽山の噴火、広島の土砂崩れ、
クリスマス音楽本来の平安と慰めを再発見してくれたなら、うれしいことです。
私個人としてもこの秋、大事がありました。大阪で教会役員を長く務めた信徒が、かつての教会学校生徒に刺し殺される、という事件が起こり、衝撃を受けました。動機は、単純です。暴力事件で刑務所に入り、出てきたけれど仕事がない。住む所を何とかしなければ、ということで一人暮らしの老婦人を狙い、金目当てに押し入った。初めから殺すつもりだった。結局狙い通り住まいは決まった。刑務所に。
犯人の妹は、私から受洗しています。母親も以前からの信徒です。
教会全体が揺らいでいます。悲しみと悩みの中にいます。クリスマスのメッセージも、このこととの対話抜きには出来ないでしょう。上から教え、指導して済むことではありません。各人が、一段と高いレベルの信仰と確信に到達することが求められます。
本日は、クリスマス礼拝、特にガラテヤ書を選びました。ここがパウロ書簡の中で、珍しく降誕に触れているためです。福音書以外でも珍しい、と言うことになります。
パウロが、マリアからの誕生をどのように考え、信じていたか、また宣べ伝えようとしていたか、学ぶことが出来るでしょう。
1、最初は、それは、神の御計画の時が満ちたことである。
プレーローマ「時の充満」エペ1:10、マコ1:15、
人間の側で機が熟した結果終末的出来事が起こるのではない。・・・むしろ、「子」の派遣によって『時の充満』は起こった。時間の主は、聖書の神である。
2、次は、「女から生まれ」ということです。神の子が、肉の姿をとられた。受肉降臨です。
み子の降誕は、まことの人間としての誕生でした。「女から」、という言葉は、処女懐胎を指している、と解釈する者たちもいます。主張する者たち、と言うべきでしょうか。決してそうではありません。
ゲノメノン エック グナイコス、ゲノメノン ヒュポ ノモン、
God sent his Son,
born of a woman, born under law,
3、ここには、パウロの大事な主張が記されています。「律法の下に」生まれた。
これは「女か」らと同格で並列されています。
イエスは人間であることに伴うあらゆる運命を背負う完全な人間でした。
彼は単に我々と同様に肉体を持つ存在であったばかりでなく、「律法の下にある」者たちとの完全な連帯の内に生きる者として生まれました。
彼は恐れや孤独や苦難や誘惑や疑い、そして究極的には神に見捨てられることなどにより、常に脅かされている不安な人間の生活の、あらゆる状態に陥る弱さを持っていた。
彼は自ら罪は犯さなかったが(Ⅱコリ5:21、ヘブ4:15、1ペト2:22、Ⅰヨハ3:5)、はかなく罪深いこの世に属し、常に死にさらされていた。
4、「お遣わしになった。」これは、み子の派遣、と表現されるでしょう。パウロは、ここ以外ではローマ8:3だけで、この考えを言い表しています。
「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くためにみ子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」
生きることには目的がある。造られたものには意味があります。
5、み子イエスの降臨は、律法の支配下にある人間の解放のため、でした。代贖。
イエスは律法の権威に服する者になることで、律法の権威に下にある人々に贖いの道を拓
きました。改革者カルバンの名言があります。
「彼は彼自身を鎖につなぐことによって他の人々から鎖を取り除いた。」新約註解
み子の降誕により、罪から解き放たれるのはすべての私たちです。
イエスの降誕には、十字架が影を落とし、甦りの光がさし込んで来ます。
6、み子の霊は、すべての私たちの心に与えられています。
父親に対するように、息子として隔意なく、親しく、語ることが出来ます。アッバ、父よ
その故に私たちは神の養子です。 罪に囚われていた者も、養子とされることにより神の子の身分を与えられます。
映画『ベン・ハー』、ガレー船を漕がされる囚人・奴隷となっているベン・ハー。
海戦となり、沈没する船、漂流の中で司令官を助ける。海戦全体はローマの勝利。
栄冠の提督を助けたジュダ・ベン・ハーは、養子とされる。衣裳、指輪、冠。
宴席での披露、「これは私の息子です」。
み子イエスの降誕により、私たちは一人ひとり神の子供とされました。
それは、私たちが、それぞれアッバ、お父さんと呼びかけ、語り合うことが出来ることでわかります。アッバは、アラム語でお父ちゃん、と言う意味です。かしこまった場ではなく、家庭の中での話し言葉です。
それは、私たちの人生に父なる神の愛が注がれていることを証します。
人生が、問題なしになることを保証するものではありません。
私たちの人生は、良い父に守られていても、多くのトラブルに見舞われます。そして悩み、苦しみます。黙って見守る父がいることにどれほど励まされるでしょうか。
尊敬する牧師の説教集に、その方の親友である牧師の御子息が、自死を遂げたことが語られています。優秀な学生、将来を嘱望されていた。「大変残念であり、悲しいこと。かれはそのお父上が、いつも彼のことを愛し、深く案じていたことを知らなかったのです。もし知りえたならば、決して自死する事はなかったでしょう。」父親である牧師は、お目にかかったこともありますが、まことに古武士のような、と言う形容そのものの方でした。おそらく日常の生活で、御自分の感情、情緒を発出することを恥じるタイプでしょう。知らせることがお出来にならない。晩年にはだいぶ変わられたようです。
父なる神は、御自身の愛を私たちに知らせてくださいました。それがクリスマスの出来事です。