2014年11月30日日曜日

神の国の戸口

[聖書]ルカ131830
[讃美歌]490,459,575、
[交読詩編]25:1~14、

同じ一つの主日に、二つの呼び名がついている。いかにも奇妙なことです。なぜ?

いかにも尤も至極に聞こえる理由付けがなされます。旧約聖書のうち、どうしても教会暦として読むべきものがある、ということでした。それが、こひつじの聖書として読まれた創造物語と出エジプトの出来事です。それを教会暦の終末の時期に読むべきだ、と主張されました。これらが、読まれるべきなのに、読まれていない、という指摘には感謝します。

しかし、それをこの時期に無理やりはめ込んで、混乱させる意味があるのでしょうか。別途、連続講解説教を試みる。三位一体主日の中で、聖書と主題を変更する形では出来なかったのでしょうか。

 結果は、教団内での混乱です。一致することができません。

諸教派の間の不信です。異なる教会暦を立てるようでは、これまでの教会再一致運動は無駄だったということになる。教団は何を考えているのか。信頼できない。

 

 神学生時代、村田四郎先生が、こんなことを言われました。

「君たちは、やがて教会に赴任し、説教することになる。すると重箱の隅を突っつくような説教をして満足したくなる。それは止めなさい。若い時は、自分の新知識をひけらかしたくなる。それは出来るだろう。しかし君たちの務めは、福音を解き明かすことだ。自分を誇ることではない。グレート・テキストと呼ばれる聖句がある。苦労だろうが、それと取り組みたまえ。」

 

 これまで、よく思い出し、反省してきました。成果が上がらないので申し訳ありませんが、これでも随分反省し吟味しているつもりです。教会暦との関連は、小異を強調するのは、自分の学識能力をひけらかすことに似ている、ということです。

それでも教団内の大方の教会がこれを用いるなら、止むを得ません。教師の友、信徒の友、

牧師手帳など教団出版物に用いられていますので、一般的な表記と共に併せて書くことにしてきました。御理解いただければ幸いです。

 

さて、本題に入りましょう。からし種とパン種のたとえです。

1821節にあります。これは共に神の国を譬えたものです。

何故、二つの譬を続ける必要があったのでしょうか。

からし種は、神の国の外的な成長発展を表します。どんどん伸びて行く様を示しています。

パン種は、神の国、イエスの力が内的に充実、盈満することを顕わします。

これから後、神の計画のうちでは、そのご支配は限りなく大きく拡張されて行きます。

その拡がりは、今の時点では想像することすら出来ません。全地を覆うようになります。

二つの譬は、それぞれの意味を持ち、神の国の充実と発展を表し、教えています。

 

 私たちは、その結果を今見ているので、そのままなるほど、と受け入れようとします。

しかし、主が語られたその時代の人々ユダヤ人は、どうだったでしょうか。

彼らは、ローマ帝国の片隅の民。意識としては、唯一の神がお選びくださった民、この我らこそが世界の中心。しかし現実は厳しい。古い約束だって、どうなるかわからない。その成就、実現を待っている。メシア、救いの王が到来することを待っている。

主イエスの時代、主の教えに耳を傾け、その奇跡を見ようとする人は多かったでしょう。

しかし、ユダヤの一地方のことであり、ローマ帝国の、東の辺境の出来事です。広大な帝国の中のことと考えれば、ほんの僅かな人でしかありません。神の国の充実、進展も、夢物語に過ぎないのではないだろうか。

 

21節までの譬による教えは、人々の心に疑いを引き起こしたに違いありません。

イエスは、エルサレムに向かう道すがら、機会を捉えて、この疑いに答えようとしておられたのでしょう。すると、一人の人が質問しました。『救われるのは少数なのでしょうか』。

大変面白い質問です。これをどのように理解したものでしょうか。

私は、これを質問した人は、少しだけであれば、自分はとても無理だろう、と考えていたのだろう、と直感的に感じました。消極的ですね。自分の性格が出るものです。

違う解釈があります。自分は、イスラエルの末裔であり、神の民の掟も守ってきた。神の国は、大丈夫、保証されている。仲間はどれほどだろうか。こうした意味です、と示唆されました。積極的で、ずいぶん自信を持った人だなあ、と感じました、

 

この質問に、主は答えられます。22節以下です。質問者だけではなく、同じことを考えているすべての人に対する答えとなっています。随分つれない答え方です。時についての問(172021)と同様、これは人間の知りうることではないからです。大学や、レベルの高い講演会では、質問者に対して、司会者が質問の意味が分かりません、と答えることがあります。あるときには、これは良い質問、私も答えを伺いたい、と言うこともあります。この質問は、イエスに対する質問に相応しくない、と言われている、と感じます。

 

入学・入園の定数とは違います。神が赦し、招かれた者であって、その数に限定があっても、神のみぞ知りたもうことです。神の国へ入るためには、自らの努力が必要です。御国の戸口が狭くなるのは、その人が努力しないためです。その人のためには、戸口は充分に広い、そこを通れますよ。千歳空港には、歩行者のためのベルトがあります。立ち止まっていても運んでくれる優れもの、と考えていました。最近気付きました。「立ち止まらないで歩いてください」。間違いのない、正しい方向のベルトに乗り、ゆっくりでもその方向へ歩くことが大切です。

 

それでも通れない人が多いのです。招かれていて、やって来ても、時間に遅れて、戸が閉められてからでは、もう入れません。戸の外に立って、戸を叩いても、叫んでももう遅いのです。これは、黙示録320を思い出させます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」

 

これに対して、戸の外の者からは、反論があるだろう。「ご主人様、御一緒に食べたり飲んだりしました。広場で教えを受けたりもした仲間です」。神殿における祭儀的な食事や、教会の聖晩餐が意味されているようです。ユダヤ教や後のキリスト教会が言われています。そうした仲間であっても時間制限があり。扉は閉じられれば二度と開かれません。遅れては入れません。間に合うためにも努力が必要です。

 

27節は厳しさを増した言葉です。「不義を行う者ども、皆私から立ち去れ。」

アディキアスは、不正、不義、悪事、害、などを指します。神との関係の正しさが義です。

既に、遅れてくること自体、不義とされるでしょう。

また自分たちは預言者の子である、と自負している民族です。そのご先祖様が、神の国に入っているのに、何故自分達が入れないのだ、と言って歯噛み、歯軋りする者も多くなる。同時に、東西南北、あらゆる方角から予想すら出来ない人々がやって来ます。 

そして、神の国の宴席につくのです。逆に、自分は大丈夫と考えていた人々が、高括りをしていた人々が、閉じられた戸口で、大声で叫び、歯噛みしたりすることになります。

 

 今こそ、救いの日、救いの時です。

Ⅱコリント62「いまや、恵みの時、今こそ、救いの日」

戸口が閉められないうちに、神の国の門をくぐりましょう。