2015年4月12日日曜日

復活顕現・エマオで

[聖書]ルカ241335
[讃美歌]280,457,57、
[交読詩編]16:1~11、

エマオへ向かう二人の弟子、その日の夕刻のことでした。エマオはエルサレムから西へ60スタディオン、約11kmのところ、意見の相違があり、確定はされていません。

同じ日の朝早く、婦人たちが主イエスの亡骸に油を塗ろうと願い、出向いたところ、墓が空っぽであることを見出しました。そこで起きたこと、起きなかったことを他の弟子達に伝えました。必ずしも喜び迎えられたわけではありません。戯言のように感じられたようです。然し、ペトロは違いました。直ちに墓へ行き、イエスを捜します。何も見つけることは出来ません。

ヨハネは、もう一人の弟子が先についた、と記します。これは福音書記者、若いヨハネだったのでしょう。ルカが2424で「仲間の者が何人か」とするのは、この事でしょう。

 

クレオパともう一人の弟子の間ではこうした一切のことが、話し合われていました。彼らは、暗い顔をしていたそうです。無理もないですね。ガリラヤでイエスと出会い、人生の希望を託しました。イスラエル解放の希望です。この方に従って行けば間違いない、と感じ全てを委ねました。ところが思いもよらず、突然取り去られました。目先が真っ暗になる思いだったでしょう。まだまだ、明るい将来を思い描くことは出来ません。

私たちもこの社会で、将来の希望を思い描くことが出来ない、と感じた時、暗い顔になっているのです。失望や絶望が怖いので、何ものにも希望を抱こうとはしなくなることもあります。この二人の間に一人の男が顔を出します。福音書記者は、それはイエスである、と明かしています。然し、二人の眼は遮られていたのでイエスとは判りません。

 

二人は、このイエスにいろいろ説明します。その結論は、世にも不思議なことが起こった。

葬られたイエスの亡骸がなくなっていた、というものでした。

 

イエスは、二人の者が、実に物分りが悪く、心が鈍い、と嘆きます。古の預言者のこと、ご自身がなさったメシア予言のことなど、モーセと預言者から初めて、聖書全体にわたって、説明されます。イエスが聖書を説明されるのです。

私たちは、聖書がイエスはキリストであることを説明している、つまり、聖書がキリストを解き明かす、と考えています。ところが、ここでは、キリストが聖書を解き明かしています。

ルカが伝えるこの出来事の要点は、キリストによる聖書の解き明かしと、エマオの宿で、キリストが弟子たちにパンを裂いて与えられた、という二つのことです。つまり、聖書の解き明かしとパン裂きがエマオ途上の復活物語の内容です。

私たちはしばしば忘れていたり、気付かなかったりすることがあります。それは、聖餐式がキリストに起源をもっているように、聖書の解き明かしである礼拝説教もキリストが起源である、ということです。従って牧師は、聖餐式と説教を、起源がキリストにあるように正しく執行し、 正しく語らなければなりません。説教者は恣意的にならないよう教えられ、訓練されてきました。自分の話芸を誇るのなら、噺家、漫談家になればよいのです。

そして、信徒も聖餐と礼拝説教を、キリストに起源をもつものとして、正しく受け取らなくてはなりません。聖書の福音が語られることを求めるのです。聖書の解き明かしとパン裂きこそが、復活のキリストに出会う奥義であることを、ルカは、指し示しています。

 

1516節に戻ります。この最初の段階で二人の弟子の目は遮られていました。『人は見るだろうと期待している、予期しているものを見るものだ』と言われます。見るだろうとは思ってもいないものは見ても見ないのです。目が開かれたのは、イエスが彼らと「一緒に席についた」ときです。この「一緒」という言葉、ギリシャ語ではシュンまたはスンと発音する語。シンフォニー、シンパシーなどでよく知られます。気を付けたいのは、一緒に別々になっていることです。砂場で幼児が遊ぶ姿を見ていると、一緒にいるのですが別々に遊んでいる、ということがあります。本当に共にいるなら、其処では何か新しいことが起きてきます。

イエスは「一緒に歩き始め」(15節)、「一緒に泊り…共に泊まる」(29節)、「一緒に席につく」(30節)というように、つねに彼らと「一緒に」おられました。其処では新しいことが起きました。「私たちの心は燃えていたではないか」、これは新しいことが起きたことを示しています。甦りの主イエスとの出会い。初めてのことです。彼らが知らなかったこと、気付かなかった事が起こりました。同じことが我々にも起きます。

 

じつは、イエスが我々と一緒におられるのに、それに気付かないという話が聖書にあります。最後の審判のとき、キリストが「わたしが餓えたとき、渇いていたとき、旅をしていたとき、病気のとき、牢獄にいたとき、わたしによくしてくれた」(マタイ2536節)と言いますと、言われた人々は、「わたしはあなたにお目にかかったことはありません」というのです。そのときキリストはこういいます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタイ2540節)。つまり、我々は苦しんでいる「最も小さな者・弱い者」と出会うとき、復活のキリストと会うのです。

復活のキリストが「最も小さな者」としていつも我々の目の前におられることに、気付くことが出来ます。甦りの主キリストは、このような形で、私たちの目の前に現れてくださいます。感謝しましょう。