2015年4月19日日曜日

復活顕現・彼らの真ん中に

[聖書]ルカ243643
[讃美歌]280,441,401,77、
[交読詩編]4:2~9、

 

説教の方法を、少しだけ変えてみます。これまで、パウロ書簡や福音書を連続して読み、学ぶスタイルを試みてきました。最近は、ルカ福音書、だいぶ読み進み、もう少しで終わりが見えてきました。ここで一応終わりにします。すでに復活主日から、教団の教会暦・聖書日課に基づく説教に入っています。たまたま教団の教会暦、それに基づいた聖書日課もルカ福音書でした。余り変わりがないかも知れませんが、主題と聖句の選択において私の主観は極力排されている、とご承知ください。教団の教会暦、聖書日課に基づいた説教をするように務めます。

 

前主日は、エマオ途上の弟子達に現れた甦りの主イエスの記事を読みました。主イエスは、無理解な者、不信仰な者たちに現れ、自ら聖書を解き明かしてくださったものでした。

更に、一緒にいてくださり、パンを裂いてお渡しになっている時、弟子たちの目が開けました。彼らは主イエスを見分け、起こっていることの重大性を理解したのです。

本日は、その次に語られることです。ルカ福音書243643、このペリコーペと、詩編429は日課の記載のままです。ほかに旧約・イザヤ5116、使徒書・Ⅰコリント155058が挙げられています。

    

二人の弟子は、急いでエルサレムに戻りました。十一人とその仲間達が集まり、主の復活は本当だ、シモンに現れた、などと話しているところでした。クレオパともう一人の弟子も、自分たちが経験したことを全て、順序良く話しました。とりわけ、パン裂きの時にイエスだと解るようになったことを伝えたようです。いろいろ質問が出たり、確認されたりで、かなり心が燃えた状態になっていったことでしょう。

 

エルサレムへ戻ったことは、教会の歴史を考える時、重要な意味を持っています。

この朝、イエスの亡骸を求めて墓を訪れた女達、街中の弟子たちのもとへ帰りました。

其処から出発した二人はエマオの宿から、直ちにエルサレムへ帰りました。

どちらも自分たちの体験を伝え、分かち合い、証言しました。ユダヤの律法は、証言する者は、必ず複数であることを求めます。教会は、常にキリストに関わる証言を複数で行うようにしてきました。ホーリネス派では、今に到るまで、伝道者は夫婦揃っていることを定めています。またアメリカの教会は、海外宣教に赴く宣教師の任命は、基本的に夫婦一組単位にします。独身の婦人宣教師は、あったようです。

明治中ごろ、他の教派に遅れて、ディサイプルス派が宣教師を日本に送りました。全て夫婦一組単位です。大坪先生が赴任された秋田の本荘教会も、そうした宣教師達によって生み出されたものです。夫人が病死され、失意の内に帰国された方もあります。

大きな犠牲を払って宣教師達は、來日されました。それは十字架と甦りのキリストを信じ、それを宣べ伝えるためです。その喜びを伝えずには、いられなかったのです。

 

エルサレムへ戻ったことは、もっと深い意味を弟子たちの教会に示し、教えました。

主イエスは、その生涯の最後を、このエルサレムで迎えることにされ、ここに戻ってこられました。そして新しい命の始まりをこの地で始められたのです。まさに永遠の福音は、ここエルサレムから始まります。

パレスティナの宣教旅行を終えて戻ってきたシモン・ペトロ(言行録911章)、また宣教旅行を終えるたびごとに戻ってきたパウロ(言行録1321章)にも当てはまることです。

これによって人々は、キリスト体験を分かち合い、力づけあうことが出来ます。

 

その最中のことです。話題の中心になっている主イエスご自身が、彼らの真ん中に立ち、言われました。「あなたがたに平和があるように」、ギリシャ語聖書では、エイレーネー フミン と書かれています。これは間違いなく、ユダヤ人の日常の挨拶の言葉、シャロームそのままです。これも、平和があるように、と言う意味です。讃美歌Ⅱ編202

弟子たちの一団は、主イエスの亡骸がなくなった、主イエスは甦った、私は甦られた主イエスにお目にかかった、裂かれたパンを渡されました、などと報告し、話し合い、興奮状態を続けていました。彼らは自分の体験を分かち合っていました。良い知らせを分け合いました。決して平静な状態ではありません。主イエスは、そうした状態の人々の唯中に現れ、心を鎮めなさい、平和があります、と言われるのです。

 

主イエスの言葉通り平静になるかと言いますと、なかなかそうは行かないものです。受け入れていないからです。主イエスの言葉によれば、彼らは、うろたえています。彼らは、恐れおののき、亡霊を見ているのだ、と感じていました。

彼らが不安や恐怖に支配されるのではなく、真実に拠って平安を得るために、主イエスは御自身を差し出されます。「手や足を見なさい。亡霊には肉も骨もないが、私にはそれがある」。これで真実がわかり、安心できるでしょうか。死んだはずだよ、お富さん。

もっと不安になります。こんなはずは無い、と思うからです。

 

この頃、と言うかもう少し前から、私たちの周囲では妖怪の人気が高まっている、と聞きます。水木しげるさんの魅力もあるのでしょうか。最近の妖怪ウオッチになると、まるで判りません。辞書は、同じような事象を指す言葉・類語を次のように分類します。

妖怪は人外が化けて出たもの。人間を見境無く脅かす。

幽霊は人間が化けて出たもの。未練が残っているため成仏できない。

お化けはこの2つを合わせたもの。

お化けを信じて、ここで現れると思っている人には、そこで見えるそうです。そのようには考えず、信じていない人には見えない。木の枝が作り出す陰や、風の生み出す物音が、人によっては幽霊・妖怪に見える、と言われています。感覚が非常に繊細な方のようです。

私は、そういう時でも見えたことがありません。

 

さて、なかなか信じることが出来ず、半信半疑の弟子たち。甦りの主は、食べ物を要求されます。ご自分が空腹になられたわけではありません。肉体を備えた実存在であることをお示しになるためでした。

焼いた魚の一切れが差し出され、彼らが見ている前で、主はそれを食べられました。

この部分は、ヨハネ福音書からの借り物である、とする説があります。多分そうなのでしょう。然し、信頼できる大文字写本は、本文通りです。この部分を削除する必要はないでしょう。古くから教会が採用してきた本文には、深い意味があります。

甦りとは、ギリシャ的な霊魂不滅の考えではありません。肉を伴う体の甦り、この手で触れ、目で見ることが出来る形への甦りなのです。甦りのキリストは十字架に死んだイエスである、ということです。この弟子たちの証言に私たちの信仰は立っています。見たことがない主イエスの甦り、私は、それだからそのことを信じます。