2015年4月26日日曜日

命のパン

[ヨハネ福音書]6:34~40、
[讃美歌]280,528,56、
[交読詩編]78:23~39、
出エジプト16:416、Ⅰコリント8:Ⅰ~13

 

本日の聖書はヨハネ福音書からです。

連続講解説教を続けていたら、私はヨハネ福音書を選ばないでしょう。難しいからです。

好きな聖句はあります。断片的には好むけれど、全体としては好みではありません。説教し難いのです。

聖書日課に従って説教しようとすると、今までとは違うことをしなければならなくなります。それは文脈研究です。前後の脈絡を意味します。連続なら、当然一回ずつ、解っています。福音書では、場所、状況、その前の場面の出来事。手紙であれば、その序論があり、論理的な構成もあるわけです。

その上、各巻概説・緒論的なことも話さなければなるまい、と感じます。かなり時間がかかることになります。最低限必要なことであっても、それを感じるのは、私だけであろう、と考えて、時には省略させていただくことになりそうです。

 

多くのことは省略。この6章に記されていることだけに留めましょう。

まずここでは、5000人に対する給食があります。場所はユリウス・ベツサイダ。ガリラヤ湖の北、ヨルダン川を少し上流に行った辺り。時は、過ぎ越しの祭りが近いころです。

200ディナリ分のパンでも足りないだろう、とフィリポが答えています。それをパン五つと魚二匹で満腹させ、12のかご一杯のパンくずが出ました。これも一つのパンの奇跡物語。

そして、水上渡渉の奇跡。それから、パンに関わるレクチャー、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。場所は、カフェルナウムに変わります(25節)。

「永遠の命の言葉」に続いてシモン・ペトロに12人の一人がイエスを裏切ることを預言される。

ペトロに語られた、ということに特別な意味を見出します。ここでの「裏切り」は、イスカリオテのユダのことである、とされるが、これを聞くペトロ自身、最後の時に裏切り、そこから立ち直る人物です。

 

イエスは、いかにも温かく、多くの人を包み込むような人柄。眼を瞠るような奇跡を行い、胸に染み入るような教えを語った。それでも、これを見たり聞いたりする者たちの全てが信じるわけではないことを知っておられた(36節)。

 

本日の旧約聖書日課は、出エジプト16:416です。この31節で主がお話しになりました。

荒野でイスラエルは、エジプトの肉なべを恋しがる。

神は、夕べには鶉を与え、朝にはマナをお与えになった。

 

それを聞いた人々は、飢えることなく、渇く事もなくなるパンがあるのなら、自分たちも欲しい。与えてください、と願いました。するとイエスは答えられます。

エイペン アウトイス ホ イエスース        イエスは言われた

エゴー エイミ ホ アルトス テース ゾーエース  私が命のパンである。

私に来るものは、決して飢えることなく、渇くことがない。

    エゴーエイミは、ここで初めて出てくるが、ヨハネの中で重要事項に用いられる。

人は、食べるものによって生きることが出来る。

料理されたものを食べることを知っている人は、恐らく人間らしい生活を生きるだろう。

火を知らず、料理することを知らない人間は、野獣に近い、原始的な生き方をすることになるだろう。人間進化の段階に従って食べるもの、食べ方に変化が生まれるでしょう。

他方、どのような生き方を、そして死に方を求めるかによって、その食べるものも変わってくる。「われ、渇しても盗泉の水を飲まず」という言葉があります。「武士は食わねど高楊枝」と似たようなことでしょうか。一つの生き方です。それには相応しい食べ物があり、食べ方があるわけです。

 

山形県には修験道の修行地としてよく知られた出羽三山地方があります。月山、湯殿山、羽黒山。修行者は、昔から『即身仏』を修行の頂点としてきました。生きながらミイラになる。最後には、食べるものは木の実と少量の水だけ。骨と皮だけになるのでしょうか。生き方であり、死に方です。

 

最近はグルメという食べ方、生き方があります。特別に高級な食材を、特別手の込んだ料理法で造り上げたものを食べる。これなどは豊かな社会で富の偏りが生まれた格差社会のあだ花と感じています。ローマ帝国の宮廷、貴族や富裕な人々の間

でも同じことが起こりました。帝国の没落と共に消えました。以来、一部の豊かな社会層で楽しまれました。自分の富、資産を使うのだ、勝手だろう、という生き方です。

それは、承認できません。高級食材を自分たちのためにかき集める。波及効果として普通の食材まで不足し、高くなる。一般のつましい生活、食生活の人たちが困窮します。

 

70年前、戦争の惨めな結果がこの国のいたるところを覆っていました。棲むところもなく、糧を得るための仕事もなく、着た切りで、少しの食べ物を分けて、かろうじて生きていました。多くの母親達は、食べたふりをして、自分の少しばかりの食物を子どもに分け与えました。その母達は殆ど死にました。その子ども達は、後期高齢者となっています。彼らは余り食べるものに関与しません。その次の世代以降ではないでしょうか。グルマンは。

 

父も母も、子どもには食べさせようとします。自分のものを削ってでも。

それでも食べようとしない子供がいます。理由は簡単です。外で食べてきたか、家で盗み食いをしているのでしょう。要するに、栄養や愛情とは無関係な食べ物で満腹しているからです。

 

父の御心は何か? 食べ物を供給することです。食べて、成長することです。

それが、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、終わりの日に復活させること。

これだけはっきり話しておられるのに、それを受け入れ、信じる者は少ない。

何故か、ユダヤでは、無理もない、と感じます。

 

イエスの裂かれた肉と流された血とが、まことのパンである、食物である、ということは、当時のユダヤ人にとっては、躓き以外の何ものでもなかった。なぜなら、彼らには血を口に入れるということは堅く禁じられていたからである。ヨハネもユダヤ人。

 

レビ記17:10以下(口語訳)

17:10イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。

17:11肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。

17:12このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。

17:13イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。

17:14すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

17:15自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べる人は、国に生れた者であれ、寄留者であれ、その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れているが、その後、清くなるであろう。

17:16もし、洗わず、また身をすすがないならば、彼はその罪を負わなければならない』」。

それでは、この部分はどのように理解するべきなのだろうか。福音書記者ヨハネは、人となった言葉にして神の子たる方と人間との出会いこそ、何より重要なこと、と伝えます。

 

使徒書日課は、Ⅰコリント8:413、です。

この弱い兄弟のためにもキリストは死なれたのである。食物の故に弱い兄弟を躓かせてはならない。と記されています。

8:1偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

8:2もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

8:3しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。

8:4さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。

8:5というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、

8:6わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

8:7しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。

8:8食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

8:9しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

8:10なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。

8:11するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。

8:12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。

8:13 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。

この日課は、不思議の思いを呼びます。命のパンならば、聖晩餐に結びつくのではないか、何故そうなっていないのか、という考えです。むしろ疑問といってよいでしょう。

ヨハネは、生命的な存在である主イエスを、聖晩餐にだけ結び付けようとはしなかったのです。広く誰でもが主イエスと一つになれる、と伝えているのです。

 

肉と血とは、イエスの全人格を指し示す言葉であり、この方と出会い、この方を知り、受け入れて生きることが出来る、とヨハネは伝えています。

イエスを命のパンとして受け入れ、私の血肉とするなら、そこには、真善美聖愛を基盤とする生き方が始まります。私たちが求める生き方は、この中にあるはずです。