2015年5月24日日曜日

聖霊の賜物

[使徒言行録]2:1~11、
[讃美歌]575、7,343,77、
[交読詩編]146:1~10、
[聖書日課]・創世記11:1~9、ルカ11:1~13、

本日は、教会暦の聖霊降臨日に当たります。降誕節、復活節、昇天日と並ぶ、キリスト教
会の四大祝祭日です。別名をペンテコステと申します。
この五旬節、本来ユダヤ教の三大祝祭の一つで,穀物の収穫を感謝する祭りです。
過ぎ越しの祭の後50日目にあたります。別名、七週の祭り、あるいは 刈り入れの祭りと
呼びます(出エジプト、申命記より)。
ユダヤ人にとって五旬節の日・ペンテコステは、出エジプトの折、シナイ山でモーセが十
戒の石の板を頂いた記念すべき時でした。
それを、イエスをキリストと信じる者たちは聖霊降臨節に変えました。
これは、ギリシア語pentēkostē(〈第50〉の意)に由来し,《使徒行伝》2章1節以下に伝え
られている聖霊降臨日をさす語です。元来は旧約聖書に記されている過越の祭より50日目
の七週の祭(《出エジプト記》34:22)を意味していました。
新約聖書では,それをイエスの復活日より50日目をさすと解釈しました。それによれば,
この日聖霊が初代教会の信徒たちの頭上に炎のように降り,そこで彼らが〈他国の言葉〉
で語りはじめたとされています。
聖霊降臨節は、教会の誕生日です。
昇天日は復活から40日。復活は過越しから三日目。
ペンテコステは、元来は旧約聖書に記されている過越の祭より50日目の七週の祭(《出エ
ジプト記》34:22)を意味していた。50或いは50日祭を意味する。過越しから50日

起算日によっては数日の差が生じる。新約聖書では,それをイエスの復活日より50日目を
さすと解釈しました。
本日の日課の第一は、言行録2:1以下です。主イエスが十字架に掛けられたため、イエス
を信じる人たちは、一目を恐れて、閉じこもっていました。この日奇跡が起こりました。
聖霊は、ギリシァ語でプニューマ、ヘブル語ではルーアッハ。
どちらも息、風を意味します。目には見えないが、その働きの結果を見れば判る。
12人を初めとする弟子たちは、イエスを十字架につけた人々を恐れていました。その彼ら
が、閉じこもっていた家から出て、公衆の面前でイエスのことを話し始めました。彼らは
、霊の力を受けて変わったのです。
彼らの話を聞き、多くの人が仲間に加わりました。彼らも霊の力を受けて変えられました
。その中にはエルサレムのユダヤ人、諸方のユダヤ人もいました。外国人もいたようです

    
こうしてエクレーシア・教会が形成されました。呼び出された者の群れです。当初、ユダ
ヤのシナゴーグ・会堂に加わっていましたが、やがて外へ出て自分たちの流儀で礼拝をす
るようになります。甦りの主を記念するため、週の初めの日を選びました。
ユダヤ人にとって、創造の神が休息された週の終わりの日は、絶対の礼拝日でした。
それでも、礼拝の日は土曜日から日曜日へと変更されました。
この日、読まれる旧約の聖書日課。創世記11:1~9は、多言語奇跡を語ります。
創られた世界には、多くの人が生きていました。全地は同じ一つの言葉を使い、考えを理
解することが出来ていました。人々は大きな町と高い塔を築き、その名を高く挙げよう、
と考えました。彼らは、「石の代わりにレンガを、漆喰の代わりにアスファルトを得た」
のでこの大工事が可能になりました。建設資材の革新は、技術革新でもありました。
神はこれを見て、彼らの言葉を乱し、全地に散らされました。分裂への奇跡
孤立化、排除、規模のメリットの喪失、非効率化、実は、自立の機会であり豊かさの実現
でもあったはずです。自己中心的な人間の欲望は、それを阻害しました。
言葉とは何でしょうか。人と人の間でコミュニケーション・伝達交流を可能にするツール
・道具と言えるでしょう。人の思考、知識、感情、精神、その他諸々を伝えます。
時にはそのつもりもないのに伝わることがある。逆に、伝えたいのに伝わらないこともあ
る。誤解が生じる原因。言葉などなくても伝わるものがあります。それが愛です。
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言葉が乱されるとは、言葉がその役割を果たせなくなってしまうことです。
行伝2章は、この役割の有効、効果的な回復を示します。
もうひとつの多言語奇跡・一致統合への奇跡。交流の実現は、良いことだけではありませ
ん。力ある者が、自分の側から一方的に伝え、聞かせる事を以って良しとしたらどうなる
でしょうか。自分の考えを押し付けるだけです。反発が強くなります。分裂します。
言葉を持つ者は、それを用いて仕えることが大切です。
もうひとつの日課、福音書は、ルカ11:1~13。聖霊を求めなさい、と語ります。
主の祈り、主イエスが、祈りを教えます。私たちが用いる主の祈りの縮小版のようです。
それに続いて、執拗な求めは応えられる、と教えます。求めなさい、そうすれば与えられ
る。そして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる、と語られます。
神との交流にもっと集中すべきだ。
私たちは、不必要な交流に心を用い、一喜一憂している。
父なる神との交流にもっともっと力と時間を用いた方が良いのです。
神は私たちの語りかけを待っておられます。聞く時を待っておられます。
聖餐式holy Communionに関して、陪餐の意思を明らかにしましょう。
教区総会聖餐式の司式担当、その夜親しい牧師達と会食、その席でのこと。
厳粛な式で良かった、起立要求は初。
陪餐の意志を明示すべきだ。それが言葉の役割。起立、挙手、ニーリング、
ディサイプルスは主日毎に聖餐式があります。習慣となり、流され易いと感じます。とこ
ろが逆に、聖餐式に喜びを感じ、これがないと物足りなく感じる、と言われます。普通、
起立して陪餐する意思を表します。高齢化などで起立している事が困難、と考えられまし
た。着席したままで陪餐することが決められました。その時、役員から発言がありました
。何らかの態度行動によって、陪餐の意志を表したい。役員会はそれに対して賛同し、「
軽く手を挙げて」要求された意思表示とすることを決定しました。
メソジスト教会のニーリングは、恵の座に進み出る行為です。それは同時に招きに応えて
陪餐する意志の表示でもあります。意思表示の方法はいろいろです。
厚別教会は、ニーリングの心で、起立して聖餐を受けています。今後も守って行きたいも
のです
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今や世界は、バベルの塔の時代、それぞれが声高に自分の要求を語る。自分の力を誇示し
て、認めさせようとしている。弱い、細い声を掻き消してしまう。然しそれは通じない。
聞こえない。言葉は共有されていない。力ある者、大声の者の声だけが虚しく響き渡る。
この時代こそ、意味のある言葉に力を得させなければなりません。
目には見えない聖霊の働きの結果は、これほどたくさんあります。
聖霊は今も働き続けています。