2015年5月31日日曜日

土台なしで家を建てますか

[聖書]ルカ6:43~49、
[讃美歌]575,12、旧304、
[交読詩編]8:2~10
ある年のこと、岩手県花巻温泉へ行く機会がありました。宮沢賢治記念館、中尊寺、毛越寺。娘は、中尊寺金色堂を見たことがないから一緒に見たい、と言います。山を登りました。混雑を見て諦めました。毛越寺では、西の山肌に大の字を見つけ、京都五山の送り火と同じことをしていたことを理解しました。当時の京都は戦乱が続きました。藤原清衡,基衡、秀衡三代はこの奥州の天地に平和を祈る仏教文化の都を築きました。この寺の内外にもそれを見ることが出来ました。藤原三代の平和を求める心に感動しました。


医王山毛越寺は、藤原第二代基衡の建立、開山は慈覚大師円仁。
往時では堂塔40・僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったと云われています。壮大な庭園遺構と伽藍遺構が魅力です。
毛越寺境内には、大きな石を方形に配置した遺跡があります。建物の礎石です。大きいけれど、内部は空洞状態だ、と考えられます。恐らく講堂と呼ばれる建物、と書いてあったように記憶します。礎石、土台石によって、その上にあった物が判るのです。それ以外のものは作れません。基本構造は変えられません。
誰でも土台を置き、上物を作り、載せる。
どのような土台を創るか、置くか。それは作ろうとするものの構造により決定されます。


大阪の玉出教会は、教育館建築に当たり、地盤改造と基礎打ちに金と時を使いました。
しっかりと造りましょう、というのが日本人一般の土台に関する考えです。土台を据えずに家を建てるとは、思いもよらないことです。掘っ立て小屋ならいざ知らず、恒久的な家屋建築であれば、土台をしっかり据えるものです。


聖書には土台に関し、語るものがあります。有名なものはマタイ7章の末尾の譬です。
5章から続く《山上の教え》の最後に、語られました。(口語訳)
「7:24それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
7:28イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。


賢い人、愚かな人って言うけど、こんなことあるのかな、常識じゃないかな、とわたし達は感じるのではないでしょうか。イスラエルでは、こうしたことが起こるそうです。
乾季には、乾いた平坦な場所、家を建てるのに最適の場所に見える。軽く考えて建築をする。雨季になると、雨水を集めた濁流の通り道になる。何もかも押し流してしまう。
確かに、よく調べもせず建築した人は、愚かと言われても仕方がありません。


土地の選定が愚かなんだよ、と言う考えもあります。それは当たっているでしょう。ただ、この譬は、建築を素材にしながら、主イエスの言葉に聞き従うか否かを語ろうとしています。建築に事寄せて、人生を築き上げることを考えさせようとしています。
倫理なき宗教は、宗教ではない、と言われます。倫理とは文字通りに言えば、人の生きる道を意味します。更に言えば、宗教は人生を守り導くものである、となります。
土台と言う言葉によって、人生の土台、人間教育の土台を指し示しているのです。
わたし達は、子どもを育て、また自分自身を育てる時に、この土台というものをどれほど考えているでしょうか。


今、日本の社会は、職業の世襲が非常に増えています。勿論、後継者難で苦しんでいる
手工芸の世界もあります。増えているのは芸能の世界です。親が幼少の頃からその世界に入れて訓練する歌舞伎、能楽そしてそれに関連する芸の世界は着実に世襲です。その中でも文楽は、後継者がいなくて公演日程を組むのが苦しくなっています。由緒ある古典芸能の世界は、その芸の土台作りに時間がかかります。どうしても世襲が必要になります。それでも何とかして新しい血を入れる、育てる努力もしているようです。芸の力を発揮できるようになるまで才能と努力と時間が必要です。良い土台を作ろうとしています。


大伝道者パウロは、その手紙の中で、建物を作ること、土台が重要であることを語ります。
Ⅰコリント3章
3:5アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
3:6わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
3:7だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
3:8植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。
3:9わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である
3:10神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである


パウロは、人間一般に対し、あなた方は神の建物である、と語ります。
この建物の土台は、主イエス・キリストです。その上に建てられた建物はキリストに合うものしかありません。家庭で、学校で、社会で、地域で育てられました。まだ成長し続けています。土台を作り直しませんか。何時でも可能です。
キリストを土台に据える、とはなんだろうか。キリストの赦しの愛を基盤とすることです。
日本海の西側にお隣の国があり、一つの民族が生活しています。ハンの感情が強く、強い感情で恨みを持ち続けることはご存知のとおりです。クリスチャン人口が50パーセント?本当だろうか、と疑います。なぜなら赦しがないから。
それと比べて台湾の人たちには赦しがあります。


子供たちが、どのような人格に成長することを願いますか。
私は、愛を持って赦すことのできる人間になって欲しいと願います。幼稚園で、教会で、
ご一緒に働こうではありませんか。
神なき教育は、賢き悪魔を作るのみ。