[聖書]使徒言行録2:37~47、
[讃美歌]544、206,393、
[交読詩編]133:1~3、
ペンテコステ・五旬節の日に、ペトロが群集に向かって説教をしました。
その最後、36節で、説教が何をするのかがわかります。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架に
つけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
人間達の所業は、イエス殺しに結びつくことが告げられました。聞く者の中には、十字架
の出来事には、一切関係していなかった人もいたに違いありません。ペトロもそんなこと
は知っていたでしょう。それでも、「あなた方が十字架につけて殺したイエス」と語りま
す。
ルカが、この言行録を書いたのは、テオフィロが総督であった頃、またパウロがローマの
獄中にあった頃、と推測します。実際は不明ですが紀元64年の「ローマの大火」以前でし
ょう。パウロは各地に伝道し、教会を造り、説教し、手紙を書き、イエスの出来事を語り
、そのことの意味を教えています。パウロは、福音の出来事の目撃証人であり、その伝達
、証言者。また、その出来事の解釈者でもありました。
その中に、イエスの十字架は、全ての人の罪の贖いである、ということがありました。ほ
かならぬあなたの罪です、自分には罪などありませんとは言えないでしょう、あの時、あ
の場所にいたらあなたも十字架につけろと叫んだでしょう、その罪を赦すのがイエスの贖
いです。神はこのイエスを主、救い手・メシアとされました。
イエスこそ、この世界の主である、ことを証言する。宣言、告知する。
ペトロの説教は、その後のキリスト教会の説教、宣教の原型となりました。
この説教の結果、何が起きたでしょうか。群衆は大いに心打たれました。そして、自分た
ちは、いま何をすればよいか、尋ねました。目には見えない聖霊の働きの、目に見える結
果です。ペトロは、群衆の言葉に応え、勧めました。
悔い改めなさい、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば聖霊を受けます。
このとき洗礼を受け仲間に加わった者は、およそ3000人。弟子たちの人数などさまざまな
ことを考えると、どのようにしたのかなあ、と不思議に思います。彼らが集まっていた家
に押しかけた群衆のうち3000、洗礼場所、水。どうやら「白髪三千丈」の類かと感じます
。
どれほど誇大な表現であっても、そこには事実の核があったはずです。多くの者が仲間に
加わった。そして42節は、彼らが、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈るこ
とに熱心であった、と告げています。
教会の始まりです。十字架につけられ葬られ、甦らされて救い主・キリストとなったイエ
スの出来事の証人たちの群れです。彼らが力と勇気を獲てキリストを証言する時、教会は
歩み始めました。その始めは、洗礼を受けることでした。洗礼は、キリスト教徒となるた
めに教会が執行する儀式。全身を水にひたすか、または頭部に水を注ぐことによって罪を
洗い清め、神の子として新しい生命を与えられるあかしとする。
ある牧師はこのように書いています。
「洗礼は、わたしたちの決意や決断に先立ってある神の決断の中に自分があることを受け
入れていくことなのです。神の決断とは、「イエス・キリスト」を通してわたしたちにあ
らわされたものですが、どんな時もわたしたちを愛し抜き、支え抜き、わたしたちを背負
い抜く神の決断のことです。この神の決断がわたしたちの決断を生み出していくのです。
わたしが神を見つけ、わたしが「この神ならだいじょうぶ」といって選んだのではなく、
神がこのあやふやなわたしを愛し、背負い続けてくださる。そこに信仰の根拠があり、わ
たしの決断が生まれていく源がある、ということを感謝して受け容れて行く、そこで洗礼
へのわたしたちの決意が生まれていくのです。」菅原力(弓町本郷)
新しく仲間に加わった者たちと共に、彼らは使徒の教えを聞くことを喜びました。新しい
仲間の知らないイエス・キリストのことがたくさんあったからです。語る使徒たちも、話
すことで新しい意味を見つけました。忘れていたことを思い出しました。使徒たちの教え
も豊かになり続けました。
相互の交わり、知らなかった者たちが、互いに理解を深め合いました。悩み、苦しみ、弱
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さを理解しました。何を喜びとしていたかも知りました。何を支え、どのように助ければ
よいのか知らせました。安心が支配するようになりました。その中心にあったのが、
パン裂きです。これが主の晩餐の古くからの呼び方です。当時の食事の仕方を示すもので
しょう。この頃、食卓には大きな丸いパンが置かれたようです。それを主賓から始めて、
取り分けて行きます。主の「最後の晩餐」の時もそのようにされたはずです(ルカ22:14
以下)。主キリストの体に加わる、と考えた時、彼らは温かく慰められるものを感じたこ
とでしょう。
彼らは祈ることを喜び、熱心でした。当時のユダヤ人たちの伝統は、ルカ18:9以下に記
されます。熱心な信仰者ファリサイ人と徴税人が祈っています。どちらも立って祈ります
。
違いがあるとすれば視線の先のようです。徴税人は、「目を天に上げようともせず」とあ
ります。下うつむいて祈ったのでしょう。ファリサイは、それとは違って目を天に向けて
いたようです。信仰に熱心な人たちは、普通眼を天にあげたようです。
たぶん、「主よとく来たりませ、マラナ・タ」という祈りはしばしばささげられたことで
しょう。
43節の「全ての人に」という言葉は、私たちに戸惑いを引き起こします。どの範囲のこと
でしょうか。すべて、といえば全てだろう、と考える人もいます。信者達、それ以外の人
も含むエルサレム中の人だろう、と考える場合もあります。私は、この場合、地域などで
限定する必要はない、と考えます。そこで起こったことに集中すればよいのです。ここで
は、恐れが起こったのですから、恐れた人はすべてと言っているのだ、と考えています。
信じるようになった人たちは、その信仰に於いて、心が一つになっています。
彼らは共同生活をしました。消費共産制、という場合もあります。生産的ではありません
。消費面での共同生活でした。これは永続する形ではありません。いつの間にか消えたよ
うです。
この頃の教会は、神殿に参加していたようです。そして神を讃美しています。ユダヤ社会
の人たちからも好意をもたれていました。信仰に熱心な気持ちよい人たち、と評価されて
いたのでしょう。
もう一つのことが書き加えられます。「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた
」。
ここには伝道活動のことは何も記されていません。ただ、最初の信者達の礼拝行為が記る
されているだけです。心を一つにして、パン裂きをし、神を讃美していました。
神が、仲間を加えてくださいました。
本日の福音書聖書日課は、ルカ14:15~24となっています。
14:15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと
幸いなことでしょう」と言った。 14:16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうと
して、大勢の人を招き、 14:17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意
ができましたから、おいでください』と言わせた。 14:18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑
を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 14:19ほかの人は
、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言
った。 14:20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 14:21僕
は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や
路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさ
い。』 14:22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言う
と、 14:23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱい
にしてくれ。 14:24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいな
い。』」
12~15節でお話になった教え(お返しすることの出来ない人々を対等な者として招き、一
つの食卓につくこと、パン裂き)を、譬の形で判りやすく展開しておられます。
大宴会が開かれます。多くの人々に招待状を送りました。当日、時刻になりました。当時
の習慣で、迎えの者が送られました。すると招かれていた人は、次々と断り始めました。
畑を買った、五頚木の牛を買った、妻を迎えたばかり、あらゆる理由をつけて断ります。
いずれも、もっともに聞こえますが、随分失礼なことに感じられます。重大な用件であれ
ばあるほど、もっと早くに判っているでしょうに、と感じます。要は、この招かれている
宴会よりも、自分の利益のほうが大切だったのです。宴会のために、自分の予定を変えよ
うとは、考えなかったのです。
案の定、宴会の招待主は怒り、しもべに命じます。
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『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を
ここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があり
ます』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をい
っぱいにしてくれ。
主の食卓に招かれた多くの力ある人々は、その持てるものの故に招きを退けました。いま
や、招きは何の力もない人々に向けられています。招かれ食卓に着いた人々、その信仰が
認められ、義とみなされます。 私たちすべてが、招かれています。招きを無駄にしな
いように、お応えしましょう。メソジスト教会では、聖餐式のとき、招きに答えて、前に
進み出て膝まずきます。これが、ニーリングですが、目に見える形で応えようとしていま
す。残したい伝統です。
「教会とは、聖徒の交わりであり、説教が正しく語られ聴かれ、聖礼典が正しく執行され
受領されるところに存在する。」
(アウグスブルク信仰告白より(ルター派信条)・
招きに応えて、進み出ようではありませんか。キリストの喜びが、天にあります。