2015年6月14日日曜日

キリストを信任する教会

[聖書]使徒言行録4:5~12、
[讃美歌]544,441,472、
[交読詩編]52:3~11、

本日の説教題は、《キリストを信任する教会》です。教会暦に従いました。

違和感があります。ネットで検索して見ました。幾つかありました。読んでみましたが、

私の違和感を払拭するものはありません。一ページしか見ていません。もっとあるはずで

す。その中に大阪・玉出教会説教ライブラリーが出ていました。

2007年6月17日、説教者・持田行人牧師。あの頃も教会暦に従う説教を試みていたようで

す。その始めに、今回と同じことが記されていました。進歩がありません。

違和感があること、新しいことを試みるのは良いこと、その意図を説明して欲しいこと、

それがなされていない場合新しいことは独善になってしまう。私としては、随分思い切っ

たことを書いています。

何故違和感を覚えるのか、ということからお話いたしましょう。7年超の間変わっていな

い、進歩していない、ということにもなりますが、教会暦、聖書日課を作る側、提供する

側も、何もしていないことです。PCの時代です。たまにはネット検索をして、どのように

利用されているか、検証してもよろしいのではないでしょうか。

さて、違和感はどこから発生するのでしょうか。単純な言葉の感覚です。

《キリストを信任する教会》、信任する。どういう意味でしょうか。辞書では、「信頼・

信用して物事を任せること」。

普通どのように使っているでしょうか。余り思いつきません。内閣不信任案が提出された

。衆議院で内閣信任投票が行われることになります。

諸外国間で外交官の信任状奉呈があります。特定の人を外交使節として派遣する旨を記し

た公文書。派遣国の元首または外務大臣から接受国の元首または外務省にあてて発する

。(わが国では、日本国天皇の名による)

日本国があり、特定の人物を信頼して国の代表に任じました。どうぞ貴国に於いてもその

旨信任していただきたい。元首の名が記されていれば、その元首の代理人ともなります。

外交官、大・公使、の信任状接受は天皇の国事行為の大事な部分となっています。

「外国の大使及び公使を接受すること」(第7条第9号)

9号の 「 接受 」 とは、外交使節に対して、接受国として反対のない旨の意思表示(アグレマン

)を与え、 その信任状を受ける行為をいいます。

これで判ることは、まず国、国家があって、そこが信頼し、派遣する。それを相手国が受

け入れる、ということです。

「キリストを信任する教会」ということは、始めに教会があって、その教会がこのキリス

トは私の代理人として信頼する。その故に派遣しますので、あなたのほうでも信頼して大

丈夫ですよ。受け入れてください、ということになります。

本日の旧約の日課は、申命記8:11~20です。

出エジプトの民が、荒野での40年に亘る試練の時を経て、間もなく約束の地、乳と蜜の流

れる地、カナンへ入ろうとする時期のことです。

40年の間に、エジプトの奴隷であった諸民族が一つとなりました。卑屈な者たちが、自立

・自由の民となりました。何時の間にやら偶像礼拝者になっていた者たちが、唯一の主、

ヤハウェを礼拝し、ヤハウェに従う者となっていました。

8:11 わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意し

なさい。12 あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、13 牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が

豊かになって、14 心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジ

プトの国、奴隷の家から導き出し、15 炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ

野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、16 あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べ

させてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。

8:17 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。18 むしろ、あ

なたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われ

た契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。19 もしあなたが、あなたの神、主を忘れ

て他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言

する。あなたたちは必ず滅びる。

8:20 主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御

声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

天地の創造主、エジプトから民を導き出されたヤハウェこそまことの神、このほかのもの

1

を主なる神としてはなりません。カナンの地に住みつくと、あなた方は豊かになる。その

とき、自分の力と手の働きで、この富を築いた、などと考えてはならない(8:17)。他

の神々に仕えてはならない。後の預言者は、イスラエルの神ヤハウェは、妬むほどに愛す

る神である(申命4:24、参考イザヤ42:8)、と語ります。

現代の豊かな世界が忘れているものを指摘されているように感じます。自力でこの豊かさ

を作り出した。自分の思い通りにして何が悪いか。怠け者共のことは関係ない。彼らは、

自業自得だ、苦しむが良い、泣くが良い。

これは、自分の力、手の業を神としてあがめている状況です。滅び去るでしょう。

福音書の日課は、ルカ8:40~56、会堂長ヤイロの娘と長血の女の癒しの物語です。

ヤイロの娘は12歳、長血の女は12年このかた出血が止まらない。娘は、有力者の家で希望

に溢れ、命に満ち満ちて生きていました。ちょうどその同じ期間、一人の女性は、血の穢

れある者として、ユダヤの共同体・社会から締め出されていました。12という数は、ユ

ダヤでは重んじられています。然し、ここでは何の意味も与えられていないでしょう。

同じ期間がある人には希望、他の人には絶望の時間であった、ということは確かです。

この二人を、主イエスは命へと回復させられました。

そこで必要だったものは、ただ信仰でした。主は、長血の女に言われます。

「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。この信仰、ヘー ピスティス スー を、

『信頼』と訳すものがあります。どちらも正しいのです。信仰とは、信頼することです。

長血の女と会堂長は共に、イエスに対する深い信頼を持っていました。最後の拠り所とし

ていたのです彼らは、もはや自分の力には頼ることが出来ませんでした。社会が、そして

個人が豊かになったとしても、それを自分の力だ、と思い込み、自分を誇り、依り頼むこ

とがあってはなりません。

第三の聖書日課、使徒書は、使徒言行録4:5~12です。これは3章「美しの門」における

、足の不自由な男が癒された物語から続きます。ペトロとヨハネは、人々に語っています



「あなた方が十字架に付けて殺したイエスを、神は甦らされて救い主となさった。私たち

は、このことの証人です。」復活の証人として語っています。そのため捕らえられます。

祭司、神殿守衛長達、彼らはユダヤの宗教と伝統の保持者であり、守護者です。サドカイ

派の人たち、ユダヤの富裕層で、政治的にも有力な貴族階級。然し律法に関しては、余り

熱心ではなかった、と考えられています。これらの人々は、自分たちに都合の良い、特権

的な地位を守るために、イエスのことを語らない様に使徒たちを捕縛・投獄しました。

それでも使徒たちは断言します。足の不自由な男が癒されたのは、あなた方は殺したが、

神が甦らされたナザレのイエスによるのです。

「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです

。」

キリストの名、それ以外に救いはありません。力強い宣言となりました。

キリストが、私たちを見出し、救い、わが友と呼んでくださっている。

この方こそ私の主であり、招いてくださった方であり、派遣してくださっている。

他のものや、事を並びたてようとすることは間違いです。

私たちが大きな力を持ち、イエスを信任して何事かを行わせるのではありません。

力のない者たち、裏切るような者たちを信頼してお委ね下さる方がおられるから、懸命に

努力して、招きに応え、派遣命令にも従うのです。

宗教改革の3大原理として有名なのが「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恩寵のみ」です。

聖書のみ、信仰義認、万人祭司・・・マルティン・ルター

聖書によってのみ、信仰によってのみ、栄光のみ、

聖書によってのみ、信仰によってのみ、恩恵によってのみ、

どうして3つあるのにそれぞれ「のみ」が付いているかというと、ローマの教会では「聖

書と聖伝」、「信仰と行為」、「恩寵と自由意思」というように、「~と・・・」の形を

とっており、そこに不純な考え方が見られたので、ルターはより純粋なキリスト教に戻す

ことを考えました。そこで、それぞれ「聖伝」、「行為」、「自由意思」といった自力的

側面を排し、あくまでも神の愛と力にゆだねる立場を「のみ」という言葉で示したのです

。これが「福音主義」と呼ばれる新しいキリスト教のあり方になりました。「聖書」、「

信仰」、「恩寵」(=恵み)は神と同じで「三」にして「一」であり関連し合っています



2

私たちは、イエスこそ私の救い主と信じます。信任ではありません。

キリスト・イエスは、誰によっても派遣されることはありません。私たちが、使命を与え

られて、派遣されます。自分や、他のいかなる権威、権力も私たちに同じような力を揮う

ことはできません。

信頼に値しない者を、駄目人間さえ、恩知らずさえ、神は信任し、御自身の使者としてお

用い下るのです。《教会を信任するキリスト》と題してお話しました。

ヴォルムスの国会での証言・1521.4.18・

最高の権威―

not教皇中心の教会・カトリック・but聖書のみ・sola scriptura・

聖書のみ=信仰と生活の唯一の無謬の規範・・宗教改革者たちの共通の確信