2015年6月21日日曜日

個人に対する教会の働き

[聖書]使徒言行録8:26~38、
[讃美歌]544,204,488,77、
[交読詩編]23:1~6、

本日の聖書日課として、使徒言行録が読まれました。これは伝道者フィリポとエチオピア

の女王カンダケの高官である宦官のエピソードです。この直前、7章はステファノの殉教

物語になっています。12人を初めとする弟子たち、信じる者たちは、諸国、各地へ散らさ

れて行きました。信仰者に対する迫害は、福音宣教の一大契機となりました。福音は世界

の辺境から、帝国の首府ローマへと進展して行きます。

弟子の一人フィリポはステパファノと同じ時にギリシャ語を話す者たちのための世話役に

選ばれました。彼は、迫害が起きたため、北の方サマリアへやってきました。ここでステ

ファノは、キリストを宣べ伝え、不思議を行い、町の人々に喜びを与えました。

これに続いて、魔術師シモンがフィリポから洗礼を受けます。

そしてこうしたサマリアの状況を聞いたエルサレム教会は、シモン・ペトロとヨハネをサ

マリアへ派遣しました。彼らが成果を収めてエルサレムは帰った後、フィリポは、主の天

使に示されて、「エリサレムからガザへ下る道に行け」と命じられます。

ここからが、本日の聖書日課になります。

女王カンダケの高官である宦官、イスラエル宗教の考えでは、体に傷がある者は侮蔑され

、その共同体の一員とは認められませんでした(申命23:1)。古代人の知恵は、そうし

た人にも生きる場を用意しています。中国、エジプト、アッシリアなどに共通します。宮

廷の女性たちが生活する場所の管理を委ねられていました。いわゆる後宮・ハレム、日本

では大奥と呼ばれた時代があります。

このエチオピア人の高官がエルサレムに来ていました。時期的には、仮庵の祭りです。多

分、この人も巡礼に来たのでしょう。その帰り道のことです。馬車の中で聖書を読んでい

ました。イザヤ書53章のようです。この頃には、旧約聖書のギリシャ語訳が出来上がって

います。預言書も容易に読むことが出来るようになっていました。ある牧師は、このエチ

オピア人は聖書を読むためにヘブライ語を勉強したのだ、と語りました。とても面白いこ

とですが、当時の状況、ギリシャ語が世界の共通語であった、ということを考えると妥当

性を欠いていると感じます。

馬車の中で聖書を読んでいました(イザヤ53:7,8)。フィリポは側へ行って尋ねます。

宦官は、「手引きをしてくれる人が必要」と応えます。フィリポは同乗して語り聞かせま

す。

この箇所は、仮庵祭りに際して読まれる箇所でした。

フィリポは、イザヤの予言が意味することを教え、それはすでに成就したことも。

たまたま水のあるところに来ました。フィリポは、この人が真心から信じていることを確

信し、洗礼を授けます。

 8:37は口語訳までは本文にありましたが、今回の翻訳に際し、本文から削除したものです。理由は、

 信頼される旧い写本には見られず、後世の教会が、その必要に応じて加筆したもの、と考えられるため



 「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、「イエス・

キリストは神の子であると信じます」と答えた。」272p参照、6世紀の大文字写本バシリエンシス、

バシリエンシス写本は、8世紀に起源し、318枚に四福音書を含む。その名が示すとおり、スイスのバー

ゼル大学図書館に存する。本文型はビザンティン型である。

 

ある人は書いている。砂漠の只中で洗礼を授けることが出来るか?

 この人は、サラサラ流れる砂で洗礼を授ける。私は、その前に、水筒中の水を用いる。

 緊急避難的な儀礼執行、パンとぶどう酒についても考えられる。Dボンヘッファーは、

 処刑される直前、獄中の主日礼拝で水とパンで聖晩餐を執行。

私たちは、このところで、イスラエルの失われた一匹の羊が求められ、見出され、喜ばれ

ていることを示されています。

先週、アメリカのサウス・カロライナ州の黒人教会で、聖書研究中の男女が銃撃され死傷

者発生と報じられました。日本のテレビ局は、キリストに所縁のある教会で、と言いまし

た。すべての教会は、キリストに結ばれています。編集記者はこの程度はチエックして欲

しい。いまだに黒人だけの教会があることに愕然。同じような人同士の結びつきを求める

ほうが優しいし、心地よい。しかし、福音は、宦官が真心を持って告白する時、洗礼を拒

みませんでした。

1

福音書日課は、ルカ書から15:1~10が挙げられています。

見失われた羊、無くした銀貨、見出すまで捜し求めるご主人様

愛を示される。99匹を野に置いて捜す。銀貨一枚以上の値打ちある油を費やしてでも捜す



失われた側は、この自分のことです。しかし、失われていることに気付いていません。捜

し求められていることに気付こうとせず、自ら行方不明になろうとしているのです。

見失われることこそ、現代人の特質などと言って、誇り顔します。

しかしその実際は、自分の居場所を見失い、どのように生きれば良いか判らなくなり、不

安な毎日を送り、アルコールや薬物、ギャンブルの中に逃げ込みます。その結果、精神科

へ、心療内科へ、心理療法へ、カウンセリングへ、となって行きます。

自分が、見つけられた羊、見出された銀貨であることがわかると、愛がわかる。

見出されるために、どれほど大きな犠牲が払われたか理解する。そして、ひとりが見出さ

れた結果、大きな喜びがあることが伝えられる。

旧約の日課は、エゼキエル書34章1-6節『羊を食い物にし、自分を養う牧者』、

 ここはもう少し長く読まないと、その真意が伝わりません。自分自身を養う牧者は災い

である、ということでおわってしまいそうです。これだけでは終わりません。

エゼキエルは、ここで主による新たな救いを明らかにしています。それは、「イスラエル

の牧者」として立てられた国の指導者たちが主から託された群を養わず、ただ自分自身を

養うことにのみ生き、国を滅ぼした彼らの偽りの統治に対する主ご自身による介入によっ

てはじめられる救いです。

彼らは群を養うことをしていなかったのです。その現実は、「お前たちは乳を飲み、羊

毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない。お前たちは弱いものを強

めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われた者を

探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らが飼う者がいないので散ら

され、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、

すべての高い丘の上で迷う。またわたくしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり探す

者もなく、尋ね求める者もいない。」(3-6節)、というものです。エゼキエルは、それ

を、主なる神の言葉として明らかにしています。

国家の指導者を「牧者」として語るのは、古代オリエント世界全般に見られる考えで、

ハンムラビ法典(前18世紀)の前文で、ハンムラビは自分が「人々の牧者」「牧場と水の

提供者」であることを明らかにした上で、「無法な者、悪しき者を滅ぼし、弱い者の権利

が強い者に奪われぬようにするため」に任命されている、と明らかにしています。同じ調

子が前710年ごろのメロダクバラダンに至る王の碑銘に響いており、これは散った人々を

集める牧者の任務を自覚したものであることを明らかにしています。

しかし、エゼキエルは、イスラエルの牧者のつとめを、以下のエレミヤと同じ牧者につい

ての理解から、そのつとめのあり方を論じています。

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それ

ゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あ

なたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。

わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。」(エレミヤ23章1,2節



民を牧する指導者がそれにふさわしい務めを果たさないと、その被害を受けるのは民で

す。その結果、民のある者は捕囚とされました。エゼキエルもその一人でありました。ま

た、捕囚を免れても野の餌食にさらされる人々もいました。その難を逃れるために外国に

散っていた人々もいます。しかし、「わたしの群れは地の全面に散らされる」(6節)現

実から民を救いだそうとする主なる神の救いへの意思と決意がここに示されました。

真実の働きをしない「牧者たちに立ち向かい」「彼らに群れを飼うことをやめさせ」(10

節)「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする 」(11節)という

、主なる神の歴史への介入、新たな歴史支配によって実現する事がここに明らかにされて

2

います。

イスラエルの牧者たちの権力の源泉が神にあるとすれば、彼らのその偽りの支配を止め

させるのもまた神です。神は、この歴史の現実に介入し、真の牧者としてのつとめをされ

ることを明らかにされるのです。歴史の主、世界を真に支配されている王なるお方として

の主の救い、慰めと慈しみに満ちた真の牧者としての主の意思がここに明らかにされてい

ます。

ここに見られる大牧者としての主イエスの意思は、「わたしは失われたものを尋ね求め、

追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えた

ものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(16節)というものです



今、私たちは、捜し求められ、見出されていることを共に感謝しましょう。

交読詩編が、本日の詩編日課となります。150編の中で最もよく知られているものでしょ

う。

人生の四季を舞台にして、いつでもこの詩編23編が登場し、ぴったりはまります。

ある日本人は、これを現代社会における詩に移し変えました。

    多忙な人たちのための詩編23編   トキ・ミヤシナ

「主は、私の歩調を定めてくださいます。私は慌てません。

主は私を立ち止まらせ、おりにふれて静かに休ませてくださいます。

主は私の心を静かな思いで満たし、曇りなきものとしてくださいます。

たとい毎日多くのことを成し遂げなければならなくても、

私は苛立ちません。あなたが共にいて下さるからです。」(後略)

このように素晴らしいお方が居られます。

本当に主としてあがめ、共に歩みたいものです。