2015年6月28日日曜日

全ての人に対する教会の働き

[聖書]使徒言行録11:4~18、
[讃美歌]544、16,299、
[交読詩編]22:25~32、

説教題や聖句選択は、出来るだけ人間的なものを排除したほうが良い、と教えられ、そのようにしてきま

した。久しぶりに聖書日課と向き合い、自分のレベルとは違うものを感じています。とても賢い人の優れ

た知恵が輝いている、と感じています。私自身は、聖書を連続して取り上げ、その中の言葉をそのまま主

題とする形が良いと考えています。

使徒言行録11章は、ペトロの経験を語るもので、10章から続く長い出来事の一部。

重複も多いので短くお話しすることにしましょう

コルネリウスはローマ人だったがローマの神々に絶望し、一家そろってユダヤの神を信じ

ていました。

 すると、あるとき天使が現れて言いました。

「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペト

ロと呼ばれるシモンを招きなさい」。

そこで、コルネリウスはすぐに2人の召使いと信頼する兵士をペトロのもとに派遣しまし

た。ちょうどこのころ、ペトロもある幻を見ます。

 目の前に律法で食べることを禁じられた獣の肉が現れ、「ペトロよ、身を起こして食べ

なさい」と天からの声が言いました。

ペトロは汚れた物は食べられないと三度拒否しました。

すると、神はいいました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたはいってはならな

い」。

 これは、どんな人でも清くない者、汚れている者といって差別してはならないという意

味でした。

 そこで、ペトロはコルネリウスの召使いが来るとすぐに出かけ、コルネリウス一家に福

音を説き明かしました。中心は次のようなことです。

「エルサレムで、人々は、イエスを十字架につけて殺してしまいました。神はこのイエス

を三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。私たちはそのことの証人となる

よう命じられました」。この結果、異邦人も聖霊を受け、水の洗礼を受けました。

さて、エルサレムの教会は、これらのことを聞いて、神はユダヤ人だけではなく、無割礼

の者たちにも聖霊と水の洗礼を授けられたのだ、と理解しました。

この当時、カイザリア、エルサレム世界では、人間はユダヤ人とそれ以外の異邦人とに分

けられていました。コルネリウスとペトロの上に起こったことは、二つに分けることをし

ない、ということでした。これはたいへん大きなことです。とりわけペトロにとっては、

驚天動地のことだったに違いありません。ペトロの世界のコペルニクス的転換といえるで

しょう。それは、ペトロ個人のことでは終わりませんでした。エルサレム教会全体が、旧

約聖書の時代から続いてきた『ユダヤ人だけの選民意識』から脱却することを求められま

した。長く続いた信条、信仰は、殆ど血肉となり、思想となり、生活習慣となってきます



それを捨てて、新しい信仰、信条を打ち立てることになりました。

それこそ、全ての人に救いがもたらされる、ということでした

福音書の日課は、ルカ17:11~18、重い皮膚病を患っている十人の癒し。

サマリアとガリラヤの間を通られた主イエス、ある村では十人の者が、遠くに立ち止まっ

て迎えました。そして呼びかけます。『私たちを憐れんでください』。

イエスは何をするでもなく、

『祭司達のところへ行って体を見せなさい』と言われます。彼らは、噂と違って、冷たい

なあ、と感じたかもしれません。それでも御言葉に従います。そこへ行く途中で癒された

。清くなっている自分を見出しました。

その中の一人は、神を讃美しながら帰ってきた。そしてイエスの足元にひれ伏して感謝し

ました。彼はサマリア人だった、と記されています。多くの人が、何故彼一人なのだ、と

不思議に思ってきました。ある人は、これは、長い間、疑問でした、といいました。福音

書記者は、そうした疑問を想定していた、と言えるでしょう。それに対する答えが書かれ

ています。『彼はサマリア人だった』、これがその答えでしょう。

十人のうち帰って来た一人は、サマリア人だった。理由もなく、わざわざサマリア人だっ

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たことを書くはずがありません。

他の者たちはユダヤ人であり、エルサレムの祭司達に見せる必要がありました。

十人の集団の中にサマリア人がひとり。同病相哀れむ、と言うが、彼はどこかで仲間はず

れになる可能性が高い。祭司に見せなさい、と言われた時、その引き金が引かれた。

エルサレムとサマリアのゲリジム山は厳しく対立している。ユダヤ人とサマリア人も同様

に対立し、他を退けてきた。重い皮膚病者であった間は、共に病人としてそれぞれの社会

からはじき出されていた。その病気が清められたことを見出した時、彼らはもとのユダヤ

人、サマリア人として別の道を歩むことになります。別の祭司を求めて歩みます。

ユダヤ人から見れば、このサマリア人はエルサレムの祭司に見せることが出来ないので永

久に清められることは出来ない。しかしサマリア人は、自分の体が清められていることを

知り、イエスのもとに帰って来た。イエスの御名を、讃美した。

後の時代は、神学的主張として「キリストの三職」という教理を考え、まとめました。キ

リスト・イエスには、祭司・王・預言者という三つの職務がある。サマリア人は、祭司と

してのキリスト・イエスに体を見せに来た、と考えることが出来ます。

この信仰が祝されました。順序があります。信仰は、自分がすでに救われた、清められた

ことへの信頼でした。そのことを感謝するためにこのサマリア人は帰ってきて、祝福され

ました。救いの宣言が与えられました。私たちもまた、救われることを求めて祈るのでは

なく、すでに救われていることを見出し、感謝することが出来ます。

                                 

旧約の日課も同じように、異邦人の救いを語ります。ルツ記1章です。

大学生の頃だったかと思います。まだ聖書のことはよく判らないころでした。深夜のテレ

ビ番組に『モアブの女』と題された映画がありました。観ましたが、よく判らず、止めて

寝たように覚えます。その後、時々思い出すのは、あれは、ルツ記の映画だったに違いな

い、と感じるようになったからです。

ルツ記の時代は、士師記と同じです。恐らく士師記とサムエル記の間と考えればよいので

しょう。サムエルは預言者であると同時に最後の士師、といわれます。

イスラエルのユダ族にエリメレクという人がいました。連れ合いはナオミ、二人の息子は

マロンとキリオン。飢饉のため、一家はベツレヘムをでてモアブの地へ行きます。エリメ

レクはそこで死に、その後、息子はそれぞれモアブの女と結婚します。オルパとルツです



10年ほどして息子達も死に、女達だけが残されました。

結局、ナオミはルツを連れてベツレヘムへ帰ります。そこで親戚のボアズが、ルツと結婚

し、エリメレクの血筋を残します。

マタイ1:5、「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オ

ベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」

これはイエス・キリストの系図です。ここには、女性の名前が出てきます。外国人または

律法破りの女性です。この人たちが居なければ、次の世代は生まれてこなかったのです。

ダビデが、イエスが生まれなかった、ということを系図は語っています。

神のご計画の中では、ユダヤ人も、異邦人も、罪人も等しく用いられ、清められ、キリス

トによる御救いに与ることが出来ます。すべての罪人の救いです。

『すべて、というときは本当に全部であって、一つも例外はないものなのです』と何かに

書いてありました。聖書関係の書物で、おそらく、主イエスの言葉について考察を加える

ものだったでしょう。主イエスが『すべて』と言われる時、それには何の例外もない。し

かし、私たちの場合はどうでしょうか。様々な例外、或いは保留がついて回るのではない

でしょうか。本日の説教題に「全ての人に対する」とあったので、思い出しました。