2015年7月5日日曜日

生命の回復

[聖書]使徒言行録20:7~12、
[讃美歌]210,156,402、
[交読詩編]35:1~10、


前回、キリストの三職についてお話しました。もう少し話すべきですが、今回も割愛します。

教会暦と聖書日課についても、その後わかったことがあり、お話しするべきです。次回に回します。

本日の日課は、使徒言行伝20:7~12、

16章でマケドニア人の依頼を聞き、パウロと一行はマケドニアへ向かうことにした。

黒海から南、エーゲ海へ下るにはボスポラス海峡からマルメラ海を通り、ダーダネルス海

峡を抜けなければなりません。この航路の北側にあるのがイスタンブール、かつてのコン

スタンティノポリスです。この場所こそ、アジアとヨーロッパの分岐点なのです。この海

峡を渡れば、全く違う世界へ行くことになります。

ヨーロッパに渡ったパウロの一行は最初、マケドニアの都フィリピへ行きます。そこでは

、紫布の商人リディアという女性に洗礼を授けました。フィリピ教会が始まります。

ついでテサロニケ、ベレア、アテネ、コリント、アンテオキア、エフェソなどで活動しま

した。その結果、各地で信じる仲間が増え、教会の基礎が固まったようです。良いことば

かりではありません。フィリピでは、占いの霊に憑かれた女奴隷を巡って、その主人達と

争いになり、投獄されたこともあります。そうした中でも、主は常にパウロ一行とともに

いて彼らを守り、支え、導いてくださいました。

使徒言行録は、ユダヤ人世界の混乱を描き出します。それに巻き込まれるように見えなが

らキリスト・イエスの弟子たちは活動し、真の神の計画が進展して行くことがしっかりと

描かれ、語られます。

20章は、エフェソでの騒動の後パウロは、弟子たちと別れマケドニアへ行きます。そこか

ら更に南下してギリシャへ赴き、そこで三ヶ月、シリアへ向かって出航しようとしていま

した。シリアと言うのは、ローマ帝国の行政区画の呼び名で、地中海東端、海岸のフェニ

キアからダマスカスやアンテオキア、エルサレムなど内陸の広い地域のことです。アレキ

サンダー大王の死後、その征服地は分割統治されますが、この地域はセレウコスコス将軍

が受け継ぎました。南のエジプトはプトレマイオス将軍です。

シリアへ向けて出航したのは、カイサリアからエルサレムへ行く計画です。これは逮捕と

動く更に総督の交代などのため長い中断を余儀なくされ、皇帝への上訴人として、軍団の

兵士たちに護衛されながら帝国の首都ローマへ向かうことになります。

人が考えた計画を超えて、主なる神の計画が成就します。

シリアへ出航する前夜の出来事、それが今朝のテキストです。

トロアスには、4節に記されるように多くの弟子たちが集まっていました。今別れては、

また何時か見聞きせん、君が顔(かんばせ)、君の声。彼らが何よりも求めたのは「パン

裂き」でした。主キリストの甦りを記念する礼拝です。それによって、今慰められたい、

と言う切なる願いがあったことでしょう。同時に、これから先、パウロ先生を主なる神の

御手に委ねようとの思いがあり、更に自分たちも同じ主のみ手に支えられるのだ、との強

い信仰が働いていたことでしょう。話は限りもなく続きました。

人々の中にエウティコと言う青年がいました。話を聞くうちに眠気が生じました。

私たちは、人の話を聴くうちに眠気を生じた彼を非難するものです。自分がしない事を他

人がしているとそれを悪とする、非難さるべきことと見る。実際に、彼は熱意を欠いてい

たんだ、『駄目だよ』と言うでしょう。

確かに若さゆえに、知識も少なく興味を持てなかったかもしれません。

若いから連日の仕事に疲れていたかもしれません。集会は朝から始まり夜中にまで続いて

います。指路教会の牧師、神学校校長だった村田四郎先生。僕は居眠りする信徒がいても

怒らないよ。彼は夜勤で疲れているのに来たんだ。この礼拝の時を喜び、一番休める場所

なんだ。  この当否は不明です。個別の事情があるのだ。共に礼拝することを選び取っ

た、と言うことには間違いがない。

三階から落ちた青年は死んでいました。30センチのベッドから落ちて死ぬ子供もいます。

6~7メートルでしょうか、死ぬには充分な高さと言えそうです。パウロ先生は、降りて行

き、彼を抱きかかえて言いました。『騒ぐな。まだ生きている。』そして、上に上がり、

話を続けて夜明けに至りました。出航の朝、別れの朝です。人々は生き返った青年を連れ

て帰り、大いに慰められました。彼らには、慰め主がいつもいた、と言うことです。息を

吹き返した青年は、この後いつも、神が共にいて支えてくださることの確証となったこと

でしょう。

1

ルカ7:11~17、ナインの町のやもめの一人息子が死にました。人間は、生まれて来たの

と同じ順序で死ねば、順番がやってきた、と考えるようです。またそうした場合、多くの

人は看病し、お世話をしながら一人の人を送る準備をし、自分自身の心の整理をするよう

です。ある若いご夫婦、お子さんは与えられませんでしたが、たいへんお幸せに暮らして

おられました。ある日突然、男性は、病気のため亡くなります。女性は茫然自失、電車に

乗ることが出来なくなり、勤め先へ行けなくなりました。課長クラスの人でした。会社は

その人の勤務地を変え、勤務形態を変え、回復を待ちました。何年たったでしょうか、3

年ほどたってからから少しずつ、5年もした頃から、働きに参加できるようになったよう

です。この女性には、幸いにもご両親と弟さんがいました。随分支えておられました。

ナインの町で葬列と行き逢ったイエス。泣き女と笛吹が付いていたでしょう。そうした職

業的な涙より強く、深い涙を、悲しみをイエスは感じられました。

やもめの悲しみです。支え、分かち合う者がいない、ひとりだけ。一人息子を心の拠り所

に、支えの杖にしてこれまで生きてきました。突然、この杖が折れてしまった。

この母親を見て憐れに思いました。「もう泣かなくて良い」、その理由を取り除くからね



「若者よ、起きなさい」、息子が戻ってくれば、何処へも行かなければ、息子と一緒に生

きていられるならば、この母は、泣かなくてすむのです。

この息子は、立ち上がりました。そして、ものを言い始めました。ここはどこ? 何をし

ていたんだろう? みんな何をしているの、ぼくおなかすいてるなあ、

人々は言いました、「神はその民を心に掛けてくださった」。大きな悲しみに襲われた時



人は、誰も自分を顧みてくれない、見棄てられた、と感じます。神も面倒を見てくれない



神からも捨てられたと語ります。ナインのやもめも、町の人々もそのように感じました。

しかし、主イエスがこの町を通り過ぎたとき、事情が変わりました。

神は、我々を見棄ててはいない、心に掛けて下さっている。今この眼で、確かに見ました

。ハレルヤ、インマヌエル、アーメン!

本日の日課は三箇所とも、死から命への回復が語られていました。

死には様々な側面があり、死の諸相として考えられています。

生物学的な死、普通、死が意味するものです。呼吸が止まり、動かなくなります。

存在論的な死、存在が消滅します。関係論的な死でもあります。絆を断たれること。

罪の結果としての死、これはキリスト教信仰に基づくものです。社会的に葬られる死もあ

ります。いずれでありましても、死の生じる時、所には多くの人の悲しみがあり、涙溢れ

る思いが存在します。それは、どうやら死が、あらゆるものに終わりを告げさせるための

ようです。

ナチ・ドイツの強制収容所、入り口には、「労働は自由を得させる」と書かれていました



後の人はここで『ここより入るもの、希望を棄てよ』という言葉を想起しました。これは

、世の中一般の死に対する感覚というべきでしょう。悲しみ、畏れ、穢れ、絶望、暗黒、

その他もろもろの否定的感情が付いて回ります。

主イエスは、そうした時、所に、慰め、希望、励まし、光、清めをお与えになります。

甦りによって、決して負けないはずの死が打ち勝たれました。

命の回復には、主イエスの力が必要です。まさに奇跡です。それを知った多くの人々は、

主イエスの力を現実化するために働きました。様々な科学の領域で成果を挙げました。未

知の事柄が、今ではよく知られたことになりました。これから、もっともっと進歩するこ

とが期待されます。キリストの奇跡は、現実化されます。