2015年7月12日日曜日

キリストの心

[聖書]ガラテヤ6110
[讃美歌]210,493,536、
[交読詩編]38:10~23、

教会暦に基づく礼拝説教を行っています。最近の動きを説明したものがありました。私自身の勉強になりました。皆様とも分かち合うことにしました。
『改訂共通聖書日課』――解説
(The Revised Common Lectionary, Abingdon Press, 1992)

新しい聖書日課の概略、
『改訂共通聖書日課』は、1992年、北アメリカの15のプロテスタント教会およびカトリック教会の協力によって作成されました。3年周期で構成され、主日ごとに3つの朗読箇所(旧約、使徒書、福音書)があり、福音書は主に、A年はマタイ、B年はマルコ、C年はルカを中心に配分されています(第一朗読は、 復活節だけは旧約ではなく使徒言行録)。3年ごとに同じ箇所が巡ってくることになりますが、3年という短い期間で聖書の主要な箇所をなるべく広く網羅する よう工夫されています。

聖書日課の歴史
聖書日課の起原は古く、4世紀には既に教会で用いられていたことが知られています。ちょうど、キリスト教がローマ帝国の国教となり、聖書正典や教義などが整えられ、イースター(復活祭)やクリスマス(降誕祭)を中心とする教会の暦が形成されていった時代です。初期の聖書日課は、1年周期(毎年同じ箇所)で、聖書の記載順に朗読するというものでした。他方、クリスマスなどの祝祭日には関連する箇所が読まれます。しかし、時代が下ると共に、週日にも特定の殉教者などを覚える記念日が増え、聖書日課は次第に複雑になり、主日ごとに主キリストの復活を祝うという意義が薄くなっていきました。
16世紀の宗教改革では、主日を重んじ、複雑になった聖書日課を本来の姿に戻そうとします。カルヴァンは、主日には福音書から説教したと伝えられます。プ ロテスタント諸教会は、それぞれ独自の聖書日課を発展させていったようです。

大きな変化、ローマ教会のバチカン公会議に始まる
20世紀後半に、聖書日課に関して世界規模の大きな変化が起こりました。カトリック教会は、第二バチカン公会議(1962年~65年)によって大変革を遂げましたが、聖書日課の改訂もその一つです。それが、世界中のプロテスタント教会にも大きな影響を与えました。プロテスタントやユダヤ教の学者も交えて作成された新しい聖書日課(1969年)では、周期を1年から3年に延ばしてより広範囲の箇所を取り入れたり、古代の伝統を回復して2箇所の朗読(使徒書と福音書)に旧約聖書を加え3箇所にしたり、聖書全体から聴くことを目指したのです。

プロテスタント諸教会もそれぞれに
この聖書日課はプロテスタント教会でも高く評価され、北アメリカでは、翌年の1970年に発行された『礼拝書』(The Worshipbook)(アメリカの3つの長老教会の共同の作)において一部変更して採用されました。続いて、米国聖公会、ルーテル教会、ディサイプル・オブ・クライスト、キリスト合同教会が、祈祷書や礼拝書の中で採用しています。
ただ、各教派はカトリック教会のものをそれぞれ一部変更し、独自の版を作りましたので、地域の牧師会などで牧師や司祭が説教の学びのために集まっても、話がかみ合わないという事態が生じてきました。

全教派共通の聖書日課、1992年版
そこで、全教派に「共通の」日課を希望する動きが起こり、1978年にアメリカとカナダの13の教派が参加して発足した「共通聖書日課本文協議会」 (The Consultation of Common Texts)は、遂に1983年、『共通聖書日課』を完成させたのです。その反響は北アメリカを中心に世界中に及び、各教会における試用を経て、1992 年に改訂版が発行されました(The Reviesd Common Lectionary, Abingdon Press)。米国長老教会も『共通礼拝書』(Book of Common Worship, 1993)において、スコットランド教会は『スコットランド教会礼拝書』(Book of Common Order of the Church of Scotland, 1994)において1992年版を採用しています。日本基督教団は1992年版を採用しながら、基本的には、それ以前の各個教派主義です。

聖書日課を用いる利点
聖書日課を用いる利点のひとつは、聖書全体からバランスよく聴くことができることです。主日ごとの聖書の朗読箇所を牧師が自分で選ぶとなると、どうしても 主観的になったり、ある特定の傾向に陥る危険がつきものです。例えば、会衆の必要を満たそうとして直ぐに役立ちそうな箇所を選ぶとか、自分の考えに合いそうな箇所を選んだり、難しい箇所や受け入れがたい箇所を避けてしまったりという誘惑が伴います。あるいは、社会正義に関心の強い牧師が行動を促すメッセー ジを語ろうとすると、その日の箇所は神との個人的な交わりがテーマだったりもしますので(その逆も可)、説教者の好みや傾向を最小限に抑えることにもなるでしょう。
 第二の利点は、教会の一致です。この日課が生まれた最大の理由でもあります。主の晩餐の食卓には、まだ全キリスト者が共にはあずかれませんが、主日ごとに 同じ御言葉の食卓にあずかることはできるのです。
 各教派教会が、自分たちの神学を主張するのではなく、同じ御言葉を毎主日読みましょう、と譲り合っていることに意味があります。教団が、一部違うものを使っていることは、残念なことです。

この聖書日課には詳しい解説や索引もついていますので、日本語に翻訳され広く用いられることを願います。

 以上、次の資料を読むに留めました。(「福音時報 第580号」(日本キリスト教会出版局、20014月)に「教会暦にもとづく『改訂共通聖書日課』――世界の教会と同じ御言葉を聴くため に」と題して掲載された文章を一部変更したものです。)
日課と主題の間には、担当者(神学者、説教者、牧師)、の神学が働いています。それは各個の教会の事情や、牧師・説教者の考えに違いがあるものです。日課の解説書を読むまでは、正しく扱うことが出来ないのではないか、と感じます。解説書を探すことにしましょう。


本日の説教題は、《キリストの心》、聖書はガラテヤ6110
聖書日課ですから聖書が先行しているはずです。本日のペリコーぺは、パウロからガラテヤのキリスト信徒に向けた生活指針のような箇所です。生活指針にキリストの心という題をつけるか。「キリストの心」ならもっと相応しい箇所があるぞ、と思いました。
まずそれを調べてからガラテヤ書に入ることにしましょう。

ピリピ人への手紙21-5節、この箇所の最後の言葉、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られることです。」「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」は、文語訳聖書では、「キリスト・イエスの心を心とせよ。」となっています。「キリスト・イエスの心を心とせよ。」これは、この箇所の言わんとするところをピタリと言い当てた名訳だと思います。
ここでキリストの心は、何を意味しているのでしょうか。それはへりくだることです。謙遜。それはキリスト・イエスにも見られることです、と書き続け、そのことをキリストが謙遜であったことを語り、証明します。

神の愛は、その独り子が、まったき人イエスという形をとって、全ての人に示されました。
イエス・キリストは、その生涯において、多くの人々の重荷を担われました。それほどに世の人々を愛されました。その極限の形が、十字架に掛けられ、贖罪を果たされることでした。愛があるから、自分が偉いとか、自分の重荷をお前が担え、といわれることもありませんでした。イエスの謙遜は、人間によく見られる悪徳となるようなものではなかったのです。神の子が、人の子になり、ありのままに生きて進まれたのです。これが真の意味での謙遜。そこには謙遜の悪徳など少しも見られません。

福音書と旧約の日課を見てみましょう。
ルカ7:36~50、ファリサイ派の人の家で食事の席につかれた。この町の罪深い女が,イエスの足もとに近寄り、その足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。・・・この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
この女性は、持てるものすべてを、この一瞬に用い尽くしました。

サムエル上24:8~18、サウル王の下を逃れたダビデは、エンゲディの砦にとどまりました。そのことを知ったサウロは全軍を率いてダビデを追います。ダビデは、サウルを害する機会があったにもかかわらず、それをせず、部下にもそうしたことを許しませんでした。『私の主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』
ダビデは、自分の命の危機の中にあっても、神から与えられたサウル王の命を守りました。
王となるダビデです。王の使命は、民の命と生活、信仰を守ることだからです。

本日の聖書日課、主題は、キリストの心。異なった聖書の箇所、異なる背景、異なる勧告。
異なるものすべてを一まとめにするのは《キリストの心》しか考えられないかもしれない。
生活指針などは、福音ではない、と言えるでしょう。確かに福音を語ることを避けて、具体的な行動・生活指針に逃げることが考えられます。逃げてはいけない。指針も御旨のうちです。御旨にかなう生き方、考え方、挙措動作があるのは当然です。
それは愛をもって謙遜に過ごしなさい、ということです。愛のない謙遜は傲慢になります。愛のある、愛から発する謙遜は、神が与えられる能力を用いて生きるでしょう。自分にはそんな力はありません、というのは謙遜ではありません。力が与えられているかどうか努力します、というべきです。信仰的な自己実現を求められています。



ピリピ217、文語訳(大正)
2:1この故に若しキリストによる勸、愛による慰安、御靈の交際、また憐憫と慈悲とあらば、
2:2なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ。
2:3何事にまれ、徒黨また虚榮のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ。
2:4おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。
2:5汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。
2:6即ち彼は神の貌にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず、

2:7反つて己を空しうし、僕の貌をとりて人の如くなれり。