2015年7月19日日曜日

女性の働き

[聖書]フィリピ413
[讃美歌]210,288,543、
[交読詩編]97:7~12、

本日は、旧約聖書から始めましょう。
ヨシュア2114、出エジプトを果たしたイスラエルは、40年の放浪を経てカナンに入ろうとします。二度目の侵入企画です。まず偵察。モーセの死後、指導者となったヨシュアは、二人の斥候をエリコに派遣します。彼らは、ラハブという遊女の家に泊まりました。
密告する者があり、捜索が始まりますが彼らは、遊女ラハブによってかくまわれ、敵の兵士の追跡から逃れることが出来ました。ラハブは、異邦人でありながら神様に対する信仰を持っていたのです。

私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。
あなた達の神、主こそ、上は天、下は地にいたるまで神であられるからです。       ヨシュア 2:116:25

ラハブは、遊女でした。その町の人たちは、出エジプトの人たちの数の多さと、これまでに発揮してきた威力を聞いて、恐れていました。ラハブは、このように語ります。
「それを聞いたとき、私たちの心は挫け、もはやあなた達に立ち向かおうとする者は一人もおりません。」211
多くの人々が、恐怖に囚われ、何をなすべきか判らない状態になったとき、ラハブは唯一の神こそ私の主であると、心に定めました。この信仰によって、やってきた未知の人々を受け入れ、守ったのです。町は滅びました。ラハブは助けられました。
神様に対する信仰によってイエス・キリストの先祖となり、その信仰は後世まで伝えられ、世界中に知られています。

信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに受け入れたために、不従順な人たちと一緒に殺されなくて済みました。 へブル 11:31
サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベデにエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデは、ウリヤの妻によってソロモンをもうけ、・・・
 マタイ 1: 56



福音書の日課は、ルカ813、(口語訳)。
8:1そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。
8:2また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、
8:3ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。

伝道の陰に、奉仕の底に女性が存在するということを、ルカは告げています。
ここでは3名の女性が、固有名詞をもって登場しています。
まずマグダラの女と呼ばれるマリア。彼女は、7つの悪霊を追い出していただいたと書かれています。霊は、神の息であり、人を生かす神の力です。悪霊というのは、人間らしさを奪い取っていく力と理解してよいでしょう。7つというのは完全数です。たくさんのどうしようもない、非人間的な力に取りつかれていた状態から、主によって解放された女性ということです。
ヘロデの家令クザの妻ヨハナ。彼女は上流階級の婦人でした。マグダラのマリアとヨハナ、この2人は、当時の立場からすれば、出会うはずもない、力を合わせる必要もない2人であったと思われます。その2人が主にあってあらゆる隔てから解放されて、共にひとつのことに向けて協力していく。これは福音のもたらす結果だということが見て取れます。
そしてもう1人スサンナ。彼女は名前しか出て来ません。さらには名も記されない多くの婦人たちも一緒だったことでしょう。この婦人たちを1つに結びつけたのは何だったのでしょうか。それは2節にある、悪霊を追い出され、病気を癒されたことへの感謝の思いでした。人間性を奪い取る力に振り回されていた者たちが、神の愛に触れ、自己回復していく。精神的にも、肉体的にも苦しんだその苦悩の中で、小さい者のために共にあり続ける主の慈しみに気がつかせられ、救われ、解放されていく。この感謝の思いが、主に仕える群れを形成していく原動力となったのです。

これまでのところをまとめる働きが、フィリピ413に期待されているようです。
これが、使徒書の日課になります。   フィリピの教会は、言行録1611以下で見るように、紫布の商人リディアによって始まりました。パウロと緊密な関係があります。
ユーオディア、スントケー、この二人の婦人は、パウロの伝道活動における良い協力者でした。その後意見の相違を生じたのでしょうか、二人は対立したようです。始めの頃の様に、力を合わせて活動してください、と勧めます(パラカロー)。
鍵になる言葉が、『主において同じ思い』ということです。かつては、キリストが生き生きと彼女達の中に働いていました。

私たち一人ひとりのために、十字架にかかり、葬られ、甦りたもうた神のひとり子エス・キリストが彼女達の中に生き、愛をもって迫っていました。キリストの愛、我らに迫れり。
Ⅱコリント514、前主日の主題『キリストの心』を思い出していただけるでしょうか。
キリストの心は、神の愛であり、まことに謙遜であることでした。

女性の働き
≪道内企業の女性幹部がいない≫、712日北海道新聞朝刊 第一面のトップ記事。
かつてはいなくて当たり前、トップニュースにもならなかった。
参政権の問題もある。スイスは1971年、日本は1945年の普通選挙で、20歳以上の男女に選挙権が与えられた。
男女平等の推進には、戦争が大きな契機となっている。男子は戦場へ。そのため空席の出来た職場は誰かが埋めなければならない。戦場から帰還した者・傷病兵・満期除隊者、障害ある者、女性。とりわけ女性は、使える、有能だ、と評価され、戦後もその職に止まるケースが多かった。こうして女性の職場進出が、その社会的地位向上が果たされた。
アメリカは、開拓の歴史があり、女性も自立する傾向が強かった。強い女性。
そのアメリカは、二度に亘る世界大戦後、朝鮮、ベトナム、中東(スエズ、イラン、湾岸、イラク)で戦い続けている。女性の進出が著しいわけだ。

女性は、いまや二流の市民・国民ではありません。
強い男性によって保護されるべき力弱い、人形のような女性ではありません。

創世記27 人間創造の記事を読みましょう。
「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくりその鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」そして18節、
「人がひとりでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
そこで主は、男・アダームを眠らせ、そのあばら骨の一本を抜いて女・イシャーをお造りになった。これこそついにわが骨の骨、肉の肉。
この解釈はいろいろあります。伝統的だったものは、男が第一、女は副次的存在に過ぎない、と言うもの。今でも大真面目に、これを語る人がいるかもしれません。そうであっても、ここには男女の優劣、序列などは記されていません。
聖書は、男と女に関し本来的な一体性、同質性と
助け合うこと、助け手であることを語っています。