2015年8月16日日曜日

恐れるな、私はすでに知られている

8月16日(日)は、持田牧師は、横須賀・田浦教会での説教の奉仕を行ったので、その説教要旨を掲載させていただきます。なお、厚別教会は札幌教会の米倉 美佐男 牧師に説教奉仕していただきました。

横須賀・田浦教会説教2015816

《恐れるな、私はすでに知られている》
[聖書]ルカ福音書1247131ページ)、

[交読詩編]139124、讃美歌21120、主はわがかいぬし
[讃美歌]讃美歌54、よろこびの日よ、ひかりの日よ、303、めぐみのみちかい確かなれば、



讃美歌120、初めて聞いたのは神学生時代。ヘッセリンク教授が奥様と二重唱された。

Ⅱ編41には、DESCANTが付いていました。バスの先生がその部分を歌い、ソプラノの奥様が旋律を歌われ、見事なハーモニーを醸し出していました。歌い終わって暫く、拍手が消えなかった、と記憶します。主日礼拝で歌った記憶はありません。 

              

主の日、主日とは何か。キリスト・イエスの甦りを記念する日。主日礼拝は、全体として甦りの主イエスを証しするものです。礼拝説教は、神のキリストを語り、説き明かす。

私たちの教会には、説教者の経験やその他個人体験は語らない、という傾向があります。確かに自分の経験などは小さいこと。語るべきではない、それはそれなりに判る。



ビルマに伝道したアメリカ人宣教師アドニラム・ジャドソン、困難な生活の中でようやく改宗者が与えられた。ビルマ語・英語辞書もできた。牢獄も経験した。ビルマでは、仏教以外のものを信じれば投獄される。本国活動・休暇の時が来た。次の宣教活動の準備期間、支援者達は各地を回る講演会を計画。ジャドソンはどこへ行っても同じように、キリストによる罪の赦しの福音を語る。少しはビルマでの経験を話してください。いや、キリストの福音以上に素晴らしいことは何も知らない。自分の外国体験談よりもキリストによる救いを語るほかにない。



然し、個人的な経験は、たとえ小さなことのように見えても神が計画されたこと。何かの意味がある。目的があります。それを探り、語らなければならないのではないでしょうか。自分を誇るのではなく、神の僕としてどのように用いられたか、その不思議は積極的に語るベきだろう、と考えるようになりました。(葬儀説教も同じ)



今日は、816日。終戦記念日の翌日、70年もたって記憶も薄れがち。

多くの方々が感じていることを私も感じている。後何回語れるだろうか?

私の小さな戦争体験を語らせていただこう。  

『人生は、死への前奏曲である』フランツ・リストがその作品の楽譜中に書きつけていた言葉。正確には次のようになります

リスト作曲:交響詩「前奏曲」ポケットスコア、解説 小船幸次郎、全音楽譜出版社

「われわれの人生は死により開かれる未来の国への前奏曲に他ならない。現世は愛によって明けるが苦闘の嵐の中に暮れる。自然の美しさは心に平安を与えるが、ひとたび戦いのラッパが鳴れば、人は必ず戦場に帰るものだ。」

リストは、人生を戦場、全ての人はこの戦場で倒れ、息を引き取る、と考えています。

中世ヨーロッパの修道院の壁には『メメント・モリ』汝死すべきを覚えよ、と記されていたそうです。また、佐賀・鍋島藩の葉隠れ論語には『武士道というは死ぬことと見つけたり』とあるそうです。日本の侍の中では、死は当然のこと、それをいかに美しいものにするか考え、実行する傾向がありました。全ての人は、死に向かって歩んでいます。

彼らにとって人生は戦場でした。『常在戦場』です。

大相撲の力士も『常在土俵』、大関三根山(横綱吉葉山の相弟子、高島部屋の後継者。栃錦・若乃花時代の人、吉葉が今の宮城野部屋を再興。横綱白鵬)が色紙に書いた言葉。高校・大学時代、駅前の小さいラーメン屋に飾られていました。

あの時代は、これは当然のこと、その下で訓練、稽古に励んだ。



戦争をイメージできない人がいます。イメージしても食い違う。日本を戦争が出来る国にする、と言う時、どのような戦争をイメージしているのだろうか。誰しもが、自分の体験を基に、或いは他の人の記憶を基に、戦争をイメージできる。

戦争とは、生きている人間が死ぬことです。殺しあうこと。殺さなければ殺される、早く大量に殺せば勝ちだ。



70年前、1945310日、東京大空襲の夜、東京の下町の二階にいました。

この日も、一日が終わり、布団の上に座り、両陛下、皇族方の写真に拝礼、そして教育勅語の暗誦。

「朕おもうに我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹()ツルコト深厚(しんこう)ナリ。

我ガ臣民(しんみん)、克()ク忠ニ克()ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ、世々(よよ)()ノ美ヲ済()セルハ、此()レ我ガ國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス。・・・」

その後長い間覚えていましたが、今は忘却の彼方に消えました。

夜の眠りに就きました。その頃すでに大人たちは、今夜は何か変だぞ、何かありそうだ、と話していたことを記憶しています。庶民の動物的な勘ではないでしょうか。いつもより入念に、枕もとの衣類などを点検させられました。どれほど寝たのでしょうか。

たたき起こされ、急いで着替え、外へ出る。地下壕もあるのに見向きもしなかった。間もなく始まる惨劇を予測できるはずもないのに、広いところを目指していた。

母は、33日に長女を出産したばかり。祖母は、荷物を背負い、両手に三男四男の手を引いている。母の両手は長男次男がいる。すでに空は真っ赤になっている。まだ爆撃機は飛んでくる。音が聞こえる。燃える炎から逃げるように歩く、歩く。炎は前を遮り、後ろから迫り、追いかけてくる。良くその中を逃げたものだと思う。恐ろしさに判断力を失い、炎に向かって走った人だっていたはずだ。やがて川についた。



橋の袂で見た光景は恐ろしいものでした。310日の夜、寒いはずなのに、皆が暑い、暑いと騒いでいる。血を流し、息がとまり、立ち上がることが出来ない。川の中で立っている人もいる。私も、母に話した。「ねー、熱いよ、川に入ろうよ。どうして入らないの。」

「どんなに熱くても、川に入っては駄目。ああして立っている人たちは、すでに死んだ人たちの上に立っているんだから。もうじきひっくり返ってしまう。」

足下に先に息絶えた人の亡骸を踏み台にしている。やがてこれらは、東京湾に流れ出ていったと聞いています。この空襲で、手がかり一つ残さずに消滅してしまった人もいる。合算して10万以上の人々。

黙って川向こうを見ていました。疎開道路、防火用に建物を取り壊し広い空地、道路が作られています。その際まで火が盛んに燃えている。あんなに燃えるものがあるのだろうか。高熱が、燃えないものまで燃えるものにしてしまうのだろう。



川向こうの広い空間を、右の方からたった一人で男が走ってくる。私たちは、母と祖母、子供5人、一緒だった。きっとあの人は家族を心配して急いでいるのだろう。燃え上がる火を背景に走る、走る。その時だ、ひときわ大きな炎が巻き上がり、怪物が襲い掛かるように走る人にかぶさってきた。ほんの一瞬のことだった。

「燃える炎が、大きな長い舌のように」人影をなめた。その人は燃えてはいない。

でもパタッと倒れて、動かない。うつぶせになり、片足は後ろに蹴上げた形のまま。燃えた様子はない。煙など少しも上がっていない。どうしたのだろう?

それでも、「ああ死んだんだ。母さん、あの人死んだんだねえ。」

「待っている人がいるだろうにね。」母も見ていたのだろう。ぽつんと直ぐに応じた。

父のことを考えていたのだろう。兵営から駆けつけてくれることになっていたらしい。

落ち合う場所は家庭ごとに決めていたそうだ。そこへ行くのもたいへんだったろう。

三菱銀行業平支店?押上かな?  此処は焼け残った。

父は、この避難所に、翌日駆け付けてくれた。どうしてそんなことが出来たのか。

空襲地域の者は帰宅が許されたのだろう。

数日して、銀行業務再開のため罹災者は外へ出された。



父に連れられて焼け跡となった家まで行った記憶があります。ただただ焼け野原、家々の残骸、人間の暮らし、生活を偲ばせる物はない。ようやく家に着いた。一階部分が少し残っていた。玄関土間の脇に地下壕への入り口があり、下へ降りる。父は、米を入れた金属製のような箱の蓋をとった。蒸し焼き状態。ここへ逃げ込んでいたらみんな死んだはずだ。緊急時の判断の大切さ、それは事前にゆっくり考えておき、その時には瞬間的に出せるようにしておくのだ。それをしていたのだなあ、と感服する。

私は、残っていた数冊の本を持って出た。軍国時代の書物、間もなく廃棄されるようなものだが、字を覚えたばかりで活字に飢えていたのでしょう。



東京大空襲を怪我の一つも負わずに、生き延びることが出来ました。奇跡的です。

母の実家は、病臥していた祖母を守っていたそうです。祖父と長男、次女は、生き延びました。私と同い年の男の子、仲良しだったケンちゃんとは二度と会うことはできなくなりました。生き延びた者は、生き伸びたことに対して自らを責めていたかもしれません。

母は、何時までも諦めませんでした。「どこかで生きている。ひょこっと,帰ってくるんじゃないか。ずーっと、そう思ってきたよ」と母。戦後49年の頃、ようやく菩提寺に葬りました。父がそうしてくれた、と嬉しそうに語りました。あの時、ようやく平和が帰ってきたのでしょう。この話を聞いて、父が焼け跡から拾ってきた、というブドウの木を大事にしていたことにも意味がある、と感じました。父の母に対する優しさだったのです。あのデラウェアは、亡くなった方たちの命を受け継いで生きて来たのです。命の形見だったのです。



《私は知られている》

戦争は、巨大な力が、個々の人格・生命を呑み込み、押し潰し、破壊しつくす現象です。



「戦争とは相手にわが意志を強要するために行う力の行使である」と定義した(第1編、第1章2項)のは、クラウゼビッツ、彼はナポレオンと戦ったプロイセンの将軍です。

「戦争は本来、政策のための手段であり、政治的交渉の継続にすぎない。つまり、戦争は政治の一部分であり、政治に従属している。」

  外交のもう一つの、最終の手段、暴力の行使、個々の生命は重んじられません。

  外交や政策の目的は、決して人間の福祉や、生命ではありません。国家や、国の体制、政府そのものが、或いは国家指導部の名誉が目的となります。



欧米のキリスト教信仰の国々が、復讐の戦争に狂奔して、その結果には眼を覆い、自己正当化してきました。広島・長崎の原爆、ルーズベルト、チャーチルが指導しました。勇敢な日本兵の抵抗を早く終わらせるために、焼夷弾による無差別爆撃。原爆投下を許可しました。相手を絶滅することを最終目的として戦争を遂行する絶対戦争の現実化です。

戦争そのものが、自己目的化するのです。



これらの多くの人は、キリスト教徒であり、日曜日には、教会で礼拝を守り、神の祝福を求め、与えられているのだ。何と恐ろしいことだろうか。あの原爆投下も、無差別爆撃も、

あの人たちの祈りによって、キリスト教の神の祝福が求められているのです。

そこにあるのは、本当の祝福ではありません。私たち人間の罪深い自己正当化であり、傲慢な自己神化に他なりません。

人間は、自らを守るために王を求め、組織をたて、軍を造ります。やがてこれらはそれ自身を守り養うために、国民を利用し、食い尽くすようになります。

戦争の本質は、人を殺すことにあります。福音の本質は、人を生かすことにこそあります。



詩編139編で、ヘブライの詩人は、自分のような小さいものでも、存在以前から神に知られています、と歌いました。主イエスは、「五羽の雀は二アサリオンで売られている。その一羽も忘れられることはない」と教えられました。忘れられないどころか、値打ちもつけられないほどの、存在が認められない一羽であっても、神は数えられている、と言われました。その生命が、存在が値打ちあり、とされていることです。私たちは皆この雀です。初めから知られています。どんな小さい者、無能な者でも、神は愛して下さいます。

何もできない者のように見えても、神は果たすべき役割を与え、必要な知恵と力を与えておられます。感謝して祈りましょう。